水茎の歩み 水茎書道院

水茎60年余の歩み 水茎の門をくぐった方が3000名を越えています 世界各地にその卒業された方が活躍をされています

みなさまこんにちは 水茎道人の水木龍(りょう)こと間山陵行です。

初代 間山陵風の円熟・病・逝去 私の苦難

盛衰とはよく言ったもので、

水茎の大盛況時代も徐々に陰りをしめしてきたのは

やはり少子化問題もあったかもしれません

また、民謡の道場が離れて別々になったのもあるかもしれません

また、息子たちがそれぞれ家庭をもって、本部との意志の疎通がうまくいかなかったというのも原因かもしれません

弟はともかく、私自身が家庭をもって情けないことがありました

最近の若者は精神的に幼稚と父が言ってたが、今考えてみれば幼稚だったと思います いつも両親に心配かけていましたね 子供が3人もいて精神的に不安定でした それでは会も衰退するわけですよ

まぁ原因は一つというわけじゃないですが妻の母がガンに冒されてて、療養後亡くなります。その後若い夫婦は頑張りますが、意見の相違からとうとう離婚という結果になってしまいます

子供たちもみんな母のところに行って寂しくなって、特に母親は寂しかったと思います ちょうどその頃、母はアルツハイマー的になっていましたし、父も肺気腫の症状が出たころで、(62歳ころ)歩いたりするとフ~フ~と息切れをするようになりました

相変わらず社会保険センターは忙しく父もなかなか病院に行かないのです 

年一回の社中展はそれはそれは大人の会員も多いので、忙しく展覧会が終わると父はグッタリと寝込む日が多くなりました

父と母の病はもしかして自分たちが原因ではないかと、反省もしましたがあとの祭り

私はセンターの手伝いもするようになり、父を懸命にサポートいたしました

父がとうとう入院することになったときは覚悟を決めてセンターの一般の会員さんのお稽古を代理で行いました

多忙もあって弟とともにやっていた損害保険の代理店の仕事をやめて本格的にまた書の勉強もいたしました

センターでは古典の勉強や、ペン習字の指導もありましたので、あちこちから指導書などを取り入れて、工夫をいたしました

この仕事で自分は大人の会員たちの指導にも自信を徐々に深めていったのです

しかし社会保険事業の本体が、この頃元から崩れ落ちる問題が噴出して、年金のあり方が問われ、保険料を払ったのに組み込まれていなかったり、払っていないのに組み込まれたり、もう年金の財源を使って全国のあらゆる施設を(箱モノ)造っていたり、トップの方々のやりたい放題でした。

その影響で、我々の地方のセンターも使用出来ないハメになり、いろんな講座の指導者たちがバラバラに散ってゆきました

幸い私はほかのところを借りて続けてはいますが、なんといっても社会保険の公的機関がPRしてくれたものですから、新人も毎年入れ替わり入会していましたが、バックアップがなくなり、会員はどんどん減る一方でした

書道が常時35人くらい、ペンも30人はおりましたが、場所を変えてからは半数以下に減ってしまいました

そしておりからの少子化、子供の生徒も減少をたどり、父が入院のころは本部支部あわせても90人くらい まだなんとか経営は成り立っていました

そして入退院を繰り返していた父は平成10年ついに力尽きました

田舎の先生ではありましたが、まぁ県展の審査員にまでなった父の葬儀には葬式、通夜あわせて700人ちかくにもなりました

書道関係者ばかりじゃなく、絵画、彫刻、俳人歌人、舞踊家その他のジャンル 政治家も多く訪れました いかに父の徳の高さを知ることになりました

葬儀後でも、遅れて焼香に訪れる人が次々とまいるのです

ようやく49日が経ったころ、力がぬけたようになり、一気に悲しみがこみ上げてきました

「あぁとうとう自分は一人ぽっちになってしまったんだ」

気丈に頑張ってきた自分も涙があふれて声を出して泣きました

 

スタッフ4人で力をあわせていた時代 今は一人ぽっち

誰の力も頼られない 自分の力でやるしかない

そう思ってまた頑張りました

そしていろんな難題が訪れましたが、乗り切って現在があります

父が亡くなって16年 まず「本部」の長島教室を閉鎖し、近くの柳町地域館に移動させました 長島の家が古くなり維持してゆけないので、不動産に頼んで売りに出していました

2年間全く売れずに諦めかけていたころ、買い手が現れたのです

丁度そのころ、昔の教え子でアラファーの女性が遊びにきました

懐かしい筒井の教え子でした いろいろ話したら向うも関東へ嫁に行ってバツイチで地元に帰って働いている

母から昔の先生がバツイチで一人で教室を頑張っていると聞いて顔を出したというのだ

何日か会って話をしてるうちに、意気投合して交際が始まった

それが現在の妻である

ちょうど、父が亡くなって傷心のころ、仏壇に向かって祈っていた

「仏様~自分はこうして一人で頑張っていますが、父も亡くなり、母は寝たきりでもう家には帰られない人になってしまいました 妻と子供たちとも別れては、私には生きる気力さえありません どうか私に丁度良い人をお与えください 一生懸命働きますので、水茎をもう少し頑張って盛り上げていきたいのです よろしくお願いいたします」

こうして何度も拝んでいたものでした

祈りは通じたのでしょう

私の前に現れたのは昔の父が初めて支部をつくった交番

その同じ交番にいた警官の娘のH・Hでした

小さい頃からよくなついて一生懸命に頑張る子でした 私は得意な百人一首をよく生徒に指導していましたが、中でも特に優れていた生徒でした

 

まさかその子が成長して、お互いバツイチではあるが、こうして「めぐりあう」なんて・・・

なんという境遇だろうか

私は偶然という言葉を信じていません

むしろこれは「必然」であり、運命の糸はみずからたぐり寄せられるものだと信じています

「求めよさらば与えられん」

いかに神を信ずるか どれだけ心を開いて素直に神様に向かって真正面から向かえるか・・・だと思っています

まさかなぁ・・と疑っていては運命は開かないのですね

 

 

話はもどって、彼女の支えがあってこそ、今多くの困難があってもなんとか生活を維持してゆけました

まぁ水茎は私二代目で終わるかもしれませんが、父と私ですでに3000余名の人々が門を叩いて社会へ散ってまいりました

いくらかでも社会の役に立ったのであれば本望です

万が一にも、書を引き継いで頑張りたいという人が現れるかもしれません 希望は捨てていません

だから一生懸命に弟子を育てています

あと20年はやりたいと思っています