水茎の歩み 水茎書道院

水茎60年余の歩み 水茎の門をくぐった方が3000名を越えています 世界各地にその卒業された方が活躍をされています

みなさまこんにちは 水茎道人の水木龍(りょう)こと間山陵行です。

父子 内弟子4人で展覧会三昧の時代(水茎最盛期)

次男坊の私が書道をやってて、弟のTにも影響を与えたかもしれない

弟とは7歳違いで、小さいころからよく自転車に乗せてあちこち連れて歩いたものだった

私が高校のころは、いわゆるチョイ悪に憧れてて、道ですれ違った少しトッポイ(ヤンチャデ カッコウツケテル?)少年と目があうと、よくにらみ合ったり、喧嘩になったりしていた それを横目で見ていた弟は、優しい子であったが兄さんはすごい、習字も頑張るし、運動神経も抜群(体操部だった)ので、多少のあこがれはあったのかもしれない (後に習字の塾を始める)

 

高校を出た弟はいったん紙業の会社に入ったが、やがて弘前の家電店を営んでる叔父さんの所に住み込みで就職した そこで頑張っていたのでもしかしたら将来その電気屋の跡取りになるのかなぁと思っていた

ところがそれもいろいろ悩みが生じて、父に相談して書道教室を開くことになった 彼は私のように代稽古をした経験もない 大丈夫だろうか?

小さな頃から引っ込み思案で、兄たちが前面にでるのでその機会がなかっただけだったようだ

幸畑の団地に一ヶ所、沖館の親戚の家に一ヶ所 教室を開きなんとか頑張っていた ライバルの他団体の教室との競争もあり、なかなか増えない

そこで英語の得意だった彼は習字、珠算、英語の3本立てでなんとか暮らせるように頑張っていた

父も本部のほか、ある町内の幹部がバスを買い取って父を招聘したのだった。(古川教室、相野教室、長島本部)陵行が(筒井教室、八ツ橋教室)弟が(沖館教室、幸畑教室)計7教室の時代があった

発表展覧会はそれはもう大変な作業であった 先生スタッフが4人いたわけだから、会議をかなりやって意見を出し合い、社中展、研修会、市民展、県展、そのほか夏や冬休みの作品を学校に出させたり、院内での誕生色紙展など大小あわせて5~8回もの仕事でした そのほか、古典研究会や森田子龍先生(墨美)の課題の研究会まであって、忙しいの究極でした

(私も弟も妻や子がいてそれは大変でした)

そのほか、父の兄の民謡外ヶ浜会の手伝いなどで、体もフル回転だった

社中展のときには他団体の先生方がかなりお見えになって、父に

「やぁ間山先生、息子さん二人もいて羨ましいですなぁ!」

300人もの生徒一般の弟子がいて、内容はともかく大盛況にみえたはずです

かなりやっかみや酷評もあり、父の陰口をたたく人もいた

 

なんといっても父は昔は中央の作家として活躍するはずで、北門や奎星、翠軒流の星雲などに参加して、墨美の森田子龍の研究会にも所属して作品研究会をしゅっちゅう行っていた ところがそれらを全て離れて独自の方向にいったものだから、どこの会派にも所属しない会はありえないといった見方をされていたのだ

しかし宮川松子先生や、一戸金鶴氏、白浜朱學氏、鈴木柳雪氏、山田翠城氏、和田現氏、小田桐半草氏、中村翠江氏、など会派を越えての交際はまぎれもなく続き、間山陵風の揺るぎない力はあったのだった

 

東奥書道の幹部で青森蛍雪書道会主の鈴木先生が、「間山さんの息子さんたち、石彫るのをやってみねべが?」という誘いから私と弟が石心会に入会した

ただ自分たちのハンコを作りたいがために入ったのだが、段々上達すると、刻字展に出してみないか?または書道芸術院展に出してみないか?

言われるまま出してみて驚いた まだそんな彫れるわけでもないのに、石心会主の千田得所先生がお見えになり、講習会(展覧会に出品する作品の製作日みたいなものだった)があり、我々の彫ったものは、かなり手直しされて、見違えてしまいった 篆刻だけじゃなく、刻字(板)などそれらを出品して「佳作」や「入選」を繰り返した 審査会候補頑張れと励まされたが、何だか違う方向にいってるなぁと思ってたら、千田先生から「次は日展を狙う」となり、また会員の先輩が良い賞を取っていて、その御礼なのか、講習会の合間にこっそり金一封を渡してるのが見えた あぁこれはついていけない 

そう思って私は石心会を離れたのだった

当時、県展の祝賀会に行っても懇親会では、読売に出さないか?毎日展に出さないかと誘いを受けた みんな兵隊がほしくてたまらないのだ

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私も弟も私的には結婚などもあり、家庭をもつというと何かと出費がおおくなり、展覧会に参加する諸経費はかなりきつくなっていた

子供も生まれ、会の運営会議も出来ない日もあり、団結力が弱まっていった

それに加えて少子化の波と、バブル崩壊の時期にさしかかっていた昭和63年ころ(1980年代後半)から特に珠算のほうが落ち込んできた 高等学校では珠算の授業を廃止し、PCに切り替えた そして平成に入ってから少子化が加速をはじめ、どんどん学校の生徒数も減少していく

それでも我が水茎は場所がよかったために生き延びていたが、小さな塾などは消えていった 

弟の教室も例外じゃなく、経営が苦しくなって教室と日新火災の保険の代理店を始めて二足のワラジを始めたのだった

子供の成長で生活費のやりくりが問題になるがこちらの給料を減らすわけにはゆかないので、本部へ出すお金がドンドン減っていく、すると本部も事業を縮小せざるをえなくなる

悪循環でした。ついに弟が教室閉鎖に追い込まれた 

父も古川や相野はやめて、本部とあらたに社会保険センターの書の講座に行った 私は筒井と本部の珠算を担当した これで教室は(本部、筒井、センター)と三ヶ所に減った

まぁセンターだけは年金暮らしの方の増加で、逆に盛況を遂げこれで水茎の命はつながった