迷い
書道の家に生まれて、運命とは今まで逆らうことなく、父のいいなりでやってきた
そして19才の若さで支部教室を任された
子供は好きだったが、いきなり70名の生徒は重かった
教え方が違うとか、気のきいた会話もできない若い新米先生は悩んだ
師範の資格もまだとっていない 中学や高校生や大人の生徒に教えていく手順がよぉく分からない ただ父からもらった手本と違うところを直すだけ
これでは生徒もついてこない
「明日学校で文化祭だって?なにを発表するんだい?」こうした会話さえもスムーズにできない男だった
相性のいい子は少しはいた それが救いだったが、あとは苦痛とストレスで肩こりがひどかった そして目まで疲れてたまらなかった
休みに友達と会うと「よっ先生」と言われるとムッとなって拒否したりした
忘れたいのだった そして実家(本部)の教室にも顔を出さなくなってしまった
そんな様子を父は見逃さなかった
オフクロと息子の相談をしてるようだった
「どうも習字は男がする仕事じゃないかも・・・オラは男だが、足も悪くしたし、これしか生きる道がないから必死だったが、息子のことを考えるとちょっと酷だったかもしれないなぁ・・・・」そう両親が考えていたようだ
そしてある日、「どうだ、筒井の支部は妹の澄子にやらせるから、おまえは市役所にでもいかないか?オラの同級生が人事課長してるので、聞いてみたら了解したといってるので、明日にでも挨拶に行ってみるが」
えっいとも簡単に許してくれるのか?と重荷から開放されるという気持ちと本当はやり遂げたいのに出来ない不甲斐なさで複雑だった
T人事課長さんの自宅に父と挨拶に行った
「おぉ!君が息子さんか、あのね昔だったら世話になった友人の息子さんならすぐにでも入れるによかったんだが、今は厳しいんだよ、臨時のアルバイトで何年か働いてくれたらいい、そして年2回くらいある採用試験を受けてくれたらいい、成績がよかったら威張ってとってあげることができるよ」
そうして私は市民課で働くことになった
私はかつてK先生と行ったように今度は妹を連れて生徒の前で挨拶をすることになった
『先生やめないで!』とか、『残念です』とかそういう反応は一切なかった
そんな慕われるほど長くやってなかったし、生徒からしてみれば、自分たちに見切りをつけて、辞めていくんだみたいに冷ややかに聞いてる子がほとんどだったかもしれない
妹も不安だったことでしょう 何故ならまだ17歳 高校を中退して遊んでいたのを、父が習字教室をやらせたら少しは大人になるし自覚をするだろうと思ったのかもしれない
無論、妹もある程度の段位は持っているが、教卓で生徒に教えるなんて経験はない でもそれを見に行ける時間も暇もない
私も三度目の職場に緊張をしていた
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迷いからの脱出
市民課って何をするんだろうと思ったら、ちょうどその時期に青森市の住所表示の変更があり、住民票の交換作業だったかな?40年まえの記憶だから定かではない
職員のほかに5~6人のアルバイトがいて共同で作業を行った
単純といえば単純 分からないことがあれば係長さんが優しくていねいに教えてくれた しかしその係長さんが時々課長さんに呼ばれて説教されるのだ その説教が延々と聞こえてくる
もしあれが自分だったら耐えられるだろうか?
ある日係長さんが、「間山くん、君は習字の家の子だったね、しかも君は先生をしていたそうじゃないか?」
えっだれがそんなことをバラした?・・・「はい、いや助手程度でした」
「でも上手いんだろ?君に書いてもらいたいものがあるんだよ」
え~なんだろう ドキドキ
各住所ごとの住民票を入れてる分離ロッカーの上に表示するものだった
「橋本1~3丁目」「沖館千刈」「荒川」各20枚くらい画用紙を切って三角にして立てておくやつだ
今なら何でもないその筆文字が、緊張で震えてひどい字になる
『あぁそれでも師匠の子か!』と言われたくない
何度も失敗しては書き直して結局 丸一日かかってしまった
「随分書き直してたようだが、どれどれ?まぁいいじゃないか」
冷や汗ものだった 翌日また気になるものは書き直して取り替えた
そうして二ヶ月くらい経ってひとりのバイトがやめたら、代わりに入ってきた子がいた
「皆さん、今日からお世話になりますS・雅子です」名前を聞いて驚いて顔をみてみた 顔はよく分からない化粧が濃い子だった
小学校を途中で転校していったSさんだろうか?
そう思っても聞けもしない男だった
すると昼休みにSさんから「あのう間山さんって、書道の間山さん?」
ハイと言うと急にニコニコしながら「私、小学校途中まで同級生だった雅子です」と言うのだった
あぁやっぱりか・・・と でも顔がまったく違うんだよ
女って変わっちゃうからなぁ
彼女は小3のとき隣りに座ってた優しくて美人な子で、大好きだったんですねぇ、それが秋になって転校するとなって、おいらはガックリしたものでした
でもねぇ、約10年ぶりに会った人だから思い切って「今日、今までの話をゆっくり聞きたいから喫茶店にでも行かないか?」と誘ったら、
「ゴメンネ、あたしもう彼がいて来年結婚するの、すごいヤキモチやきなの本当にごめん」だとさっ!(´;ω;`)ガ~ン ただ会うだけなのに・・・
人生はうまくいかないもんです
好きな人には振られるし、好きでもない人に声をかけられるものですし
好きな仕事にはつけなくて、無理やり親父に後継にさせられて、それも出来ずにアルバイト
家に帰ってからもため息ばかりついていました
3ヶ月の仕事が終わり、今度招集があるまで自宅待機だそうで、その間に車の自動車免許とりに学校へ入りました
その時でしたか、市役所の採用試験がありました
学校時代の仲間が俺たちも受けると 4人で揃って今の中央市民センターに行きました
東京の銀行をやめてきたA君、自衛隊を退職して公務員になりたいというY君、家の仕事をしながらも市役所に入りたいK君4人で受けたのだった
問題は初級公務員試験などとよく似た問題でした
のちに通知が届いた 今回は不採用 またの機会にという
ガ~ン!まぁまぁの点数だったのに・・・しかし各課 若干名募集というのに受けた人は800名くらい その中で飛び抜けていないと受からないのだった
またまた人生は甘くないと思い知らされた A,K両名とも落ちたが、Y君だけはその後も公務員試験を受けて合格し、消防署に勤務したのだった
そうしてるうちに妹に任せていた筒井支部が大変なことになっていた
「陵行や、澄子が習字に行ってから生徒減ってしまったよ」
「そんで習字に行かない日もあったようだ」
あぁ俺はまた召集があったら市役所に行ってバイトをし、また試験が受かるまで頑張ろうと思っていたのに・・・しかしあの係長が課長からドヤサレテるのを見ていて、おいらもこうした組織は向いていないのではと、かなり弱気になっていた
要するにクソ!負けてたまるか!やってやろうじゃないか!という気迫に欠けている若者だったのだ ダメならすぐ諦める・・・
これではいかん 友達にも相談した
せっかくの書の腕、俺たちがもってない習字の腕があるんだし、頑張って習字に戻ったら?という意見が多かった
そうして私は父の友人の課長さんにお礼を述べて、教室へ戻ることを決めたのだった
覚悟をきめたのだった
もっともっと深く勉強して恥をかなないような先生になるぞ!
本部の教室にも顔をだすようになった
ペン習字も雑誌の裏の広告をみて、日ペンなど申し込んで教材をそろえ、将来のために硬筆の勉強を始めた
また仮名も和漢朗詠集や高野切れなど徹底的に習った
県展や市民文化祭の展覧会にも懸命に書いて出品 そして県展は
30才までに、三度の奨励賞を取って県展会員になった よぉしオヤジのように県展の審査員になるんだという途方もない夢まで膨らんだ
なんとなく心構えが本気になると、生徒たちにもその熱意が伝わるのか、生徒もまた増えていった
折も折、筒井教室も道路拡張のために、大家さんの土田さんの店も前の部分が道路幅の拡張のために、壊して後ろへ移転しなければならない
土田さんは新しい家を建てて、元の古い家は移動させ、改築して貸してくれることになった
それが皆さんが知っているあの大きな屋根の木造の教室でした
新しいとはいっても、古い家を改造しただけですが、当時は教室としては最高の環境でした
2~3年で一気に生徒が二倍以上にそろばんも初めて50人を超え、ピークは80人もおりました 水茎最大の絶頂期でした 昭和50~60年のことでした
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