10周年(昭和37年) 第1回水茎展を目指して
その1 方向転換
昭和35年 道場第二期の新しい道場ができて一層多忙になった父(陵風)
もう一つ悩みがあった
それは国柱会と立憲養正会のことだった
10代の頃の戦時中、天皇を中心とした皇国の真の世界を追求した立憲養正会は、軍一色の政治を批判していた 書道で師となったはずの師が政治面での顔も持っていて、若き父はその活動にも浸透していたのだった
しかし戦後、時代が変わり自らも家庭を持ち、本来の書道の生活に戻ったら、その政治運動はできなかった 道場は相変わらず会に提供したりしていたが、書道に集まる生徒や弟子は、社会主義の方もいれば共産党の方もいる また宗教もそうだった
これはイデオロギーを超越して、文化活動として自分は違った生き方をしたいと会の幹部に話したそうだ 理解する人もおれば、「なに!貴様、脱退するつもりか?」
怒って父を叩いたりする先輩もいたそうだ
それをフォローしてくくれたのが、兄の澤義さんと西村さんという友人だった
師である田中澤二先生は養正時評という機関誌の中に「らんせん流書法要義」というものをシリーズで発表していた
その中で師は蔦温泉で研修会を何度もし、自然との調和を指導していた 間山陵風はその教えを書に生かして人々を内面から変えていきたいと それに賛成してくれたのが兄と友人の西村さんたちだった
父はその要義に深く心酔していたので、当時いろんな書壇からの誘いがあった(翠軒流、小川瓦木や森田子龍の前衛書の「奎星会」、北門書道など)
相田みつをもエリート街道を通り、20代でその実力は飛びぬけた方で、将来は中央書壇で活躍する人であったが、敢えてそれをやめ、独自の書を書き、個展を開いていったのと、方向が似てるかもしれない
そして会の長老の長浜さん、平山さんという方たちも次第に書道に専念する父になにかと応援してくれるようになった
それからは国柱会や立憲養正会の会合などは、我が家では減っていった
内弟子も入り、また子供達ばかりじゃなく、水茎会という書道一般生も集め、勉強会を開き、蘭川流書法要義を臨読させ、そしてそれに基づいて書を書く
社中展の前に県展などにも出品し、派閥の多いその中で闘っていた
当時は他の有力な書道会派に押されて、相手にされなかったときく
翠軒流を基盤とした宮川先生の雨声会、千峰会、大日本書芸会の辻一派、東奥書道、北門書道が主流だった青森
一時奎星会や北門や翠軒流の星雲などに出品して、高く評価されて期待されていたのに、すべて辞めて独自の方向にいった間山陵風は、異端児と思われて、妨害されたこともあったという
そんな中、10周年を迎えた昭和37年、当時「書の友」「水茎」を独自にガリ版刷りで競書の機関誌を発行していたが、父兄や会員に向けて協力して、一致団結して第一回の水茎発表展覧会を成功させましょうと呼びかけていた
2月の冬のさなかだったと思います 父兄20人、会員、そして5年以上の生徒、また父の友人たちも手伝ってくれて、元の青森市民会館1階正面の大会議室で、
展覧会が行われたのでした
市民会館にいろんなショーとかで訪れる人、市役所の隣りでの一等地でしたから、参観者が半端じゃなかったですね、一日に500人以上二日間で1200名とか普通でした
今なら考えられませんね、展覧会というと静かで5人くらいでトータル一日に100名もくればいいほうです。当時は県展並の人出だったのです
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その2 地道な努力の報われる時代
そういう努力や事業を行っていると、そのうち間山陵風の信念をよく理解し応援する方も出てきた
北門の長老「宮川松子氏」、翠軒流の高校教師「中村翠江氏」青森商業の「千葉聖峰氏」翠軒流の「小田桐半草氏」、あすなろ短歌の会長「横山武夫氏」
彼らはのちに賛助出品をしてくれたり、社中展には必ず顔を出してくれるようになった 新聞の高評までしてくれたために、
柳町に石の加工をしてる絵描きさんで、竹内勝美さんという方がおられた
彼は県展の事務局をしていて、間山陵風と意気投合するところがあり、賛助出品はおろか裏方までいろいろ支援してくださった
その後間山陵風は県展のほうで地位もあがり、審査員として活躍するようになった
そして大きな会派に対抗して、小田桐半草先生の「北翠会」「和田現先生の「雨晴会」山田翠城先生の「貞翠会」などと協力して県展の改革に寄与した
その頃、三人の息子のうち二男の私と、三男が書道を継ぎ、それぞれ教室を2~3開いていた
昭和の末期(S55~S63年)我が水茎会の絶頂期でしょうか 父子で教室が7つ
学生生徒が300人、一般会員が40名の大所帯であった
父、間山陵風のすごいところは会派を越えての交際術 そしてお酒も飲めないのに真っ赤な顔で熱い書論を闘わせて、その地位をつかんだという
いわゆる社会的な名誉や地位は少ないが、人望というか徳というかそれは息子の我々がとても真似のできるものではない
しかし会が発展すればするほどやっかみもあり、足を引っ張る輩のいるのもこの世界の常識 批判をあびたりあらぬ噂を流されたりするものである
それは家族の絆や団結力と強い信念があってはねのけられるものだろう
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蔦研修会
書の師であった螢沢蘭川氏(田中澤二)が亡くなって、宗教と政治結社から距離をおいた陵風は、一時奎星や翠軒流、北門などに身をよせたが、やはり師の教えの根幹である【『蘭川流書法要義』=のちに詳しく解説】の中に『一流一派にとらわれずに、書は自然の形象に学ぶべし、書家の書ほどたいくつなものはない』
これが頭を駆け巡った
当時(今もどうであろうか?)は日展も毎日展も主流な派によって賞も振り分けられ、師匠の真似をしないと落選してしまう
また(書ををダメにした七人=くたばれ日展)大渓洗耳著が話題になった
之を機に奎星の森田子龍氏が展覧会書道から脱皮
独自に墨美という機関誌を発表 そして陵風は森田子龍の会に所属した
一方で、蘭川氏の教えの実践で「自然の形象に学ぶべし」を実行するために、師匠同様に蔦で研修会を計画した
2~3ヶ月前から熱く弟子たちに話、気持ちを高揚させ、夜に毎週一回特別の集会をし、書法要義の臨読、朗詠の練習をさせた
そして新緑の6月に第1回蔦研修会を開催した
書道会員、児童、父兄、そして兄の雲龍氏の外ヶ浜会から竹山師をはじめ30人、そして父の同士である国柱会のメンバー5人とその家族で、総勢120名による研修会が始まった
当時流行していた8mmの映写機で撮っていただきました
第1回はあまりの人数のために、沼めぐりは蔦沼だけで終わり、そこで子供達の合唱、竹山師の伴奏で津軽山唄を雲龍先生が、朗詠を陵風先生が感動して涙ながらに唄う
そしてお昼を食べて
入浴をし、その後講義では亡き恩師の話をして、最後に揮毫で大字書を数枚書いて終了 帰りは裏八甲田を通り、田代のつつじを見て帰るというコースで無事終了したのだった
それから毎年のように内容を充実し、研修会は20年間で15回ほど開催したのだった
ちょうど私がまだ10代の後半1971年だったか、青森放送のドキュメント番組での「寒撥」=カンバチで文化庁芸術祭で受賞した
それがきっかけで五年後に映画「竹山ひとり旅」が・・・
竹山役に「林隆三」が演じた (2014年 6月4日70歳で逝去 お悔やみ申し上げます)
このころ竹山師の蔦での様子をアマチュアのカメラマン「葛西」氏が一緒に参加して竹山氏や研修の様子を撮り、写真集として発表している
蔦といえば、大町桂月があまりにも有名だが、実は竹山師もこの研修会が大好きで、子供達と一緒にあるく沼巡りを楽しみに毎年参加したと聞いている
もしかしたら、新しい創作の曲にその蔦が大きく影響していたのではと、思ったらバチがあたるでしょうか?