第1章
その1 (先生になる決意)
昭和45年、高校を卒業した水茎次男坊の間山陵行、陵行は雅号といって、書名である
本当は自分の好きな雅号をつけたかったが、暫定の名だった
いかにも陵風の仕事を行うという意味で、嫌だったのだ
しかし全くいい名前が浮かばない、浮かぶ名はすでに他人が使用していた
兄が「陵心」妹が「陵雨」、弟が「蒼風」 陵雅=リョウガは大学生で張り切り青年のIさんに、
陵峰=リョウホウは一年下のG君に決まった。やはり後輩の近所からきてるO君は「芳山」
展覧会でも陵行、研修会でも父が「陵行!」と呼ぶのでもうすっかり慣れてしまって、本名を使うときがなくなった。母まで普段でも陵行さんというので、たまに「信満」と言われるとドキッとするというか、裸を見られたようで恥ずかしいのである
さて本家のこんにゃく屋を退職してから、父の隣りに座って代稽古をさせられて数ヶ月経った夏、内弟子の小泉先生の体調が思わしくない
あの方は冷え性もあるのに、仕事の忙しさから無理を重ねていた
とうとう入院することになった
それで筒井支部を自分が担当することになった
K先生と二人で挨拶に行った
「皆さん、今度私の代わりにこの教室を担当するのは、間山陵風先生の息子さんの間山陵行さんです」と紹介された
「皆さん間山陵行です、よろしくお願いいたします」生徒には慣れてるとはいえ、緊張を隠せないウブは青二才だった
筒井支部は父が8年、K先生が21歳から8年、そして昭和46年の9月に自分が担当することになったのでした。
大丈夫かな?できるだろうか?不安はあった
若干19才、先生の息子とはいえまだ師範の資格も持っていない
専修科の奥伝クラス 手本も満足に書けない青二才でした
父は「大丈夫だ、手本はしばらく私が書いたのを持っていって、それで指導すれば案外できるものだ 失敗したり恥をかいたりして覚えるものだ、頑張れ!」
そういって父は笑うのだった
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その2 何故兄貴じゃなく次男のおいらだったのか?
父にしてみれば頼りのない息子でも、ついに支部教室を息子に任せた してやったりだと思ったのだろうか?他の商売の人はなかなか息子に後継をさせられないでいる
間山家では、長男の信行が後継として父は育てていた 習字だけじゃなく精神も鍛えようと必死だった なにかあれば説教を何時間もしていた
「学校の勉強はどうでもいい、お前は書道と三味線を一生懸命学べばそれでいい」みたいなことを言ってたので、兄はそのとおりにしていた
昭和40年代お坊さんのように家に閉じこもって本ばかり読んで、堅物な正確になっていく兄だった かたや民謡の三味線では竹山先生は「信行は耳がいい、たいしたもんだ!」と兄の才能を褒め称えていた 当時の西川洋子さん、長崎栄山さんなども「信行君にはかなわないわ」と言っていた
昭和40年代といえば戦前ではない、民主主義が定着し、父親の威厳も小さくなり時代が変わっていく中、父の教育は時代に合っていない だがおよそ芸術と言われるもの、つまり能、歌舞伎、浄瑠璃、などの伝統芸能の宗家などは今でも昔ながらの厳しい稽古をして伝統を守っている
しかし兄の信行は直角というあだ名がつくほど糞真面目で融通のきかない少年に育っていた 学校でははみだし者で周りから、変人扱い 正義感強く腕力もある兄は、クラスの連中とケンカしては孤独になっていった
よく弟の自分に「おい、俺は変わってると思うか?どこがおかしいか言ってみろ」
だから「兄さんはすべてがおかしい、もっと規則を守るだけじゃなく、許す気持ちになればいい」それだけならいいが、弟のわたしの言い方が気に入らないと、急に怒り出して殴りかかってくる
それで取っ組み合いのケンカを何度したことか
足の悪い父が道場から我々の物音を聞いて、鬼のように怒って飛んできては二人をげんこつで殴り飛ばすのだった 弟の私は5発だとすると、兄は二倍くらい多く叩かれたはずだ(小さい頃から喧嘩をすると、足の悪い父が飛んできて叩く回数は一年に100回はくだらない数年で1000回は叩かれた計算・・・・すごい)
容赦のない父親だった よく頭が壊れてバカにならないか?そう思うほど二人の頭はいっつも父に叩かれてコブだらけだったのだ
後継なんかしなくてもいいと気楽に構えた私は案外ノビノビと育ち、学校でもチョイ悪少年で自由に育った 近所の子供たちがよくなついて私のまわりにはいっつも10人前後の男女が家来になって遊んだものだった
そういう境遇を父親は見て悟ったのかもしれない
「あぁ兄は親下からはなして苦労させたほうがいいかも」
東高校を卒業した兄はすぐに竹山先生の盟友の東京の【市川竹女】先生(津軽民謡、成田雲竹の弟子で三味線は白川軍八郎の流れ)のもとに行くことになった
ご主人が下町で鉄工所をしているので、そこで働きながら民謡の修行をしたらいいとのこと、願ってもない環境だった
兄がそうだったので父は寂しくなったのか、私が高3の秋に就職がやはり東京へ決まっていたが、「信満!おめ東京さ行くのやめろ!母さん倒れてしまう!」
『え~~~!そんなぁ!母のせいにすんなよ』と心で叫んだが父のいうことは絶対である
そうだ、今は言う事を聞いてていつかスキをみて東京に逃げてやる・・・とガマンをしたのだった
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その3 思った以上に大変なストレス
いきなり70名の教室は重かった
まだ新米な若先生である
いきなり若いボンボンがきたので、生徒のほうも面食らっただろう
今までは気心のしれた女の先生である
習字はなんぼか上手いかもしれんが、先生としてのキャリアは少ししかない
それがただ直す(添削)するだけで余裕のない先生にたいくつだったかもしれない
特に4年~6年生が多かった 5、6年になるとかなり上手い子もいて、私が赤い色で直すと「あれ?前の先生はそこいいと言ってくれたのに」
「教え方が違うよ、なんかヘン?」と言い出す子もいた
それが若いおいらにとってカチンときてしまって
「俺は俺だ!たしかに前の先生と違う、でも今は俺が来たんだから、俺に従うのが当たり前だろ!」とムキになって叫んだ
生徒はびっくりして 黙ってしまった もうそれで2~3人は来なくなった
教え方がまずくて順番を待つ生徒が並んで飽きてしまって騒ぐと、イライラしてその騒いだ子を怒って叩いたりした
もう最低な先生である よく当時の生徒はついてきたものである
辞める子はいてもまた次々と入ってくる
中にはそんなオイラにも慣れてきて、いろんな話をしてくる生徒もいてホッとすることもあった
特に世話になったなぁと思うのは大家の土田さんの娘さんのヒロコちゃん、まだ5歳であったが、習字の始まりは机の並べ方やいろんなことを教えてくれた
帰りも片付け方を教えてくれた 習字も上手で終わってからもいっつも隣りにいて甲斐甲斐しくお世話をしてくれる気のきくいい子だった
それでも家に帰ると肩が痛くて(緊張で?)ジ~ンと病むのだった
まだ車の免許もないときで、バッグに荷物を沢山つめてバスで週3回通うのだった
帰りはバスもなくなり何度筒井から長島まで歩いて帰ったことか
それで自転車を買って夏はなんとか頑張れた19才のことだった