水茎の歩み 水茎書道院

水茎60年余の歩み 水茎の門をくぐった方が3000名を越えています 世界各地にその卒業された方が活躍をされています

みなさまこんにちは 水茎道人の水木龍(りょう)こと間山陵行です。

水茎と民謡と切っても切れない関係

間山陵風(父=初代)の兄は間山沢義(雲龍)二人共すでに他界されているが

兄弟9人のなかでもっとも仲のよい兄弟であった

父の実家はこんにゃく屋

父の父は間山澤次郎(明治10年生) 入内高田村出身で北片岡へ分家してこんにゃく屋を開いた

大正6年あたりに黒石出身の「つゑ」と再婚

(大正7年)大正7年に長女「はつゑ」、9年に次女「みつゑ」、10年に長男「沢一」、12年に次男「沢義」、14年に三男「沢次」、昭和2年に四男「浅市」、4年に五男「浅次」、6年に六男「浅義」、9年に七男「浅男」

次男の沢義は長男と共にシベリアへ抑留されて、後に帰還後、イデオロギーでは大議論をしたり、その後民謡の成田雲竹師と出逢い民謡を習った また家業のこんにゃく屋を長男と共に守りながら、身体障害を持ちながらも懸命に書道の腕を磨く弟の後押しをして、道場開設の際は大活躍をし、共にその道場で書道と民謡の教室にしたのであった

雲竹師は津軽民謡の発展に寄与した偉大な師であり、その一番弟子として、雲竹流民謡道場を青森で真っ先に開いた人であります。

第一期の道場は狭い部屋の中でした 昭和31~32年頃でした

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すでに雲竹師と竹山さんは昭和25年から出逢い、伴奏者としてのコンビを始めていた

そこに雲龍氏の道場ができたことで、時々顔をだすようになりました

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水茎の第二期の道場は昭和35年、正式に水茎書道院の看板とともに、日本民謡協会雲竹流民謡外ヶ浜会という看板を並べて掲げた まさに間山の兄弟の文化事業の旗揚げだった

道場が広くなったところで、道場はフル回転

火木土が習字 金曜日が民謡教室 正式に竹山師は会の伴奏として毎週顔を出していました そのうち、水曜日が竹山三味線教室になったことで、三味線だけ習いにくる方が増えてまいりました

月水金はそろばん教室も始まった 当初は青森でも選手で名高い「松井さん」という女性の先生を迎えて始めた その後近所で木村さんという父の友人がそろばんを教え、それから弟子のチエ先生がそろばんを担当

毎日のように習字、そろばん、民謡の歌声、太鼓や三味線の音が近所に響き渡ったのである

まぁ北片岡177番地(長島3丁目)はチョー有名な『珍百景なやかた』であったに違いない

真夜中は父が展覧会に出すために画仙紙を道場に散らかしていたし、窓を開けながら詩吟を唄う 気合入ってるものだから、子供たちが騒ぐと大声で叱る 或いはげんこつを振り回す 一ヶ月に一度は日蓮宗の「国柱会」または関連した政治結社「立憲養正会」の会議や集いなどもあると、夜は懇親会で大騒ぎ 真夜中の10時すぎまで大きな声が近所中に響き渡った

きっと苦々しい思いでいたことだろう

ある日、民謡のおけいこのとき、隣りのSさんのおじいちゃんが、戸をドンドン叩いて静かにしろ!と大声を出したことが二~三回あったそうだ

ほかの家々はみんな我慢をしていたことでしょう

当時は駐車違反もあまり厳しくない時代で、民謡の例会がある日は、近所の道路には10台ちかい車が停まっていたはずです

なにしろ防音装置もない家で、今のように二重窓でもない 真夏は窓を開け放して太鼓や唄でしたから

私も子供のころ、銭湯に行って帰りに100m近づけば聞こえていました

みんな諦めていたのでしょうか?

また逆に民謡がお好きな人は窓の外にいて、ずっと聴いてる人もいた

雲龍先生はその人たちを中に招き入れたりしていました

中には竹山先生のほか、後に有名になるすごいメンバーがいたのでした(敬略称)

西川洋子・・・安方の甚太古の娘さんで青森放送のレギュラー

楠美竹善・・・第二期竹山会の会長さん(魚河岸の幹部)

山善一・・・後に市議会議員

長崎栄山・・・神戸で妻の雲栄とともに民謡教室をひらき、多くの弟子を育成

須藤雲栄・・・  〃    〃

後藤吟竹・・・港町で魚屋や焼きそば屋を開きながら民謡の師となる(民謡日本一)

工藤竹風・・・油川出身 民謡の師となりながら、ねぶた作りでも有名

白鳥雲道・・・雲竹師からもあいや節などは絶賛された 後に民謡社中の代表となる

水上幸子・・・三味線のお弟子さんでしたが、保村幸子として中央で津軽弁語り部として活躍されています

そのほか、竹山師の内弟子に入ったところの岩手県から伊藤竹味さん、東京から18歳で上京してきた房子さん、後の高橋竹与さん(二代目竹山)でした

お二方は実に真面目で、青春もなにもなくただ先生のおそばに使えて、家事も一切行い三味線の稽古に明け暮れたのでした

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とくに竹与さんの場合は20数年にもおよぶ長い間、先生の手となり足となって、支えながら自らの芸を高めていったのでした。

そして二代目を襲名されたことは、道場を提供した水茎にとっても大変嬉しいことです

また、 1971年(昭和46年)青森放送で竹山を取り上げたドキュメンタリー『寒撥』が放送。一般にその名を知られるきっかけとなる。番組は同年度の文化庁芸術祭で優秀賞に選出された

その後、音楽観賞団体のさきがけの「勤労者音楽協議会労音」からの誘いで全国津々浦々を数十年かけて回ったそうだ

渋谷のジャンジャンでは若者を中心に人気となり、津軽三味線をならう人が急増した

むしろ地元の青森でその価値をあまり知らない方が多いのは情けなかった

 

 

1977年(昭和52年)新藤兼人脚本・監督により映画竹山ひとり旅が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。竹山役は林隆三が演じた。

 

民謡外ヶ浜会は昭和37~47年ころが一番華やかであったかもしれません

毎年のように発表会を行い、当時の市民会館で開催されました

当然我が父は一会員として伴奏のハーモニカを吹いたり、鼓を叩いたりして、また会の事務局として長年発表会などではイベントの企画や裏方を担当していました

また習字で展覧会があれば民謡の会員は必ず手伝ってくれました

そのほか、市民文化祭があると書道も展示会があり、民謡もまた雲龍先生が青森のまとめ役で父も私も手伝いをいたしました

書道の研修会で八甲田の蔦温泉で開催された第1回(S37年)はバス二台で、100数名もの人数で行き、当時最先端の映写機で撮ったりしていました

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その後毎年のように蔦研修会では竹山師と外ヶ浜会の面々も同行し、沼の前では子供たちが合唱したり、呼びかけを行います。

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その締めくくりには雲龍先生や、竹風先生の唄に竹山師の尺八伴奏、そして横笛での演奏など素晴らしい思い出となっております

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本当に水茎書道会と外ヶ浜会は一心同体でした

研修会は外ヶ浜会が独立して離れていっても数回書道だけで行われましたが、なんだか今いち物足りなさがあった気がします

今考えると、兄の雲龍先生が外ヶ浜会を移したことと、竹山会を楠美先生に譲り移したことなどで、竹山師とも疎遠になり、疎遠になることであれだけ深い絆で結ばれていた関係も薄くなっていったのは息子としても寂しいなぁと感じていました

今、竹山師も、成田雲竹師も父や雲龍さんたち、そして奥様や友人たちとみんな天国で手を携えて会を催しているのでしょうか

竹山師の家を守っておられる孫の高橋哲子さん宅に、竹山師の孫弟子で埼玉在住の「山本竹勇師」とともに今年の冬に訪ねてまいりました

昔の家はすでに建て替えられ、ご立派な祭壇があり、竹山師や奥様の「なよ」さんのお写真や肖像画、そしていろんな懐かしいものが見られます

哲子さんも私同様にきっと寂しさもありましょうが、大きな軌跡の名誉に囲まれて

事あるごとに、笑ったり泣いたりしながらも、勇気を奮い起こしていることでしょう