水茎の歩み 水茎書道院

水茎60年余の歩み 水茎の門をくぐった方が3000名を越えています 世界各地にその卒業された方が活躍をされています

みなさまこんにちは 水茎道人の水木龍(りょう)こと間山陵行です。

二代目 自分の(進路に悩む)

S29年に交番で始まったが、学校向かいの土田商店、当時はたばこ店だったのか、何屋さんだったんだろうか?塩、雑貨

田舎の店ですからまぁ何でも置いていたのかもしれません。

黒石のコモセを連想するように、店の中は1.3mくらいの幅の通路がありました

そして奥は長~い土間の通路が裏口まであります

途中に井戸やトイレ 数軒の間借りしてる家族がおりました

何でも戦前は五連隊(日本陸軍第8師団歩兵第ご連隊が正式名)が青森高校あたりにあり、土田さんのところが宿舎の一部だったと聞いております

私が知ってる筒井の教室は初めて父についていった(夏休み?)小学5年位の頃

バスに乗って知らないところへ行くのはワクワクでした

バスが堤を曲がるとすぐにもう人家は減り田んぼが見え、八甲田山が見えました

ようやく筒井の曲がり角を曲がって床屋さんの向かいの土田の家具屋さん?(記憶違いかも)の前で降りると、あとは川を越えて50mくらいで土田たばこ店がありました

向かいは広いグラウンドがあり遠くに小さな校舎が見えます。それが筒井小学校でした

川のそばに2階建ての古い建物が見えます それが筒井支所だったそうです

次は高校2年の頃(昭和43年)造成されたばかりの新しいモデル団地で、道路はきれいに整備されて、桜の苗木もあちこちに植えられていたが、まだ住宅はほんの少ししか建っていなかった 筒井中出身のクラスメイトと自転車での帰り道立ち寄った

(第三公園などそこで数人の子供らと話をした経緯があって、その3年後にその子達が習字を習いにくるという偶然があった)

友人と分かれてそのまま土田商店までくると、丁度内弟子の小泉さんが支部を任されており、窓から覗き込んだら、「ほれ、みんなあのお兄さんが大先生の息子さんだよ」と言ったものだから、みんなジロジロ見られて照れてしまった

その頃もまさかその教室を引き受けるとはよもや思わなかったのである

高校を卒業ちかくなり、友人たちが次々と就職を決めていた

当時の青森商業高校は、市内の主な会社や事業所の代表はほとんど青森商業卒であったし、60年の卒業生が全国で活躍してて、地元の青商生を求人にくるのであった

一人の高校生に5~6人の会社が奪い合うという求人難の時代である

それでも私は何かになりたいという目標もなかった 兄が東高校から3~5年は東京で修行するという約束で先に出てしまい、寂しくなった父は、ようやく就職が決まった私の肩を叩いて、「おまえ東京行やめれや、青森にのこれ!」と言われて驚いた

私だって当時はみんなあこがれの東京へ就職するのは楽しみにしていた

父の命令は絶対の我が家であった すぐさま母が東京の方に断りの連絡を入れた

父は跡取りに私にさせようとしていたのである 兄は不器用で書はうまいが、子供によくなつかれる次男の私のほうが適性があると思ったのでしょう

それでもすぐにはダメなので、まず実家のこんにゃく屋さんに就職しなさいと言った

当時の自分には自分の意見がなかったのだろう、言われるままだった

父としては扱いやすい息子だったに違いない

もし、社長が気に入って間山商店の将来重役となるならそれもいいと思ったようだ

実家の会社の専務をしていて、民謡の叔父の雲龍さん(父の兄)を呼んで相談してすぐに決まった

そうして私は本家の会社に就職したのだった 高校時代の友人も2、3人青森へ残ったので、会社が終わるとすぐに遊びに歩いた もう書道なんか休みがちで仕事が終わると遊びまくった

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一番右が自分(18歳ころ)

若いもんだから遊ぶと午前様のときもある だが会社は朝5時とか6時に出社しなければならない きつかった 疲れが出てボ~!としてて大事な製品をひっくり返してしまったりの失敗があった

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金木へ(右が自分 19歳?)

 

製造業なので、朝上司とトラックで市場に卸しに行って帰ってから朝ごはんを食べて、そのあとゴムかっぱを体につけて、ゴム手袋をはめてこんにゃく作りをする

工場長の寺山さんの無駄のない動きを真似した かっこいいなぁと思うのだが、なかなかうまくできない いっつも下っ端の仕事しかさせてもらえない こんにゃくは石灰を使うので、手が荒れてしまった 指の間すべてが割れてしまい、痛くてたまらない 若いのにこんな手をしてる友は誰もいなかった

夏6月ころ ところてん作りが始まる これをまだ新人の私に専門にやらせることになった 工場長が一生懸命に教えてくれる ところが順番間違えたり、大きな釜の熱温度を間違えたりで蒸かせてしまってところてんが釜から溢れてしまうのだった

するとこんにゃくを結ぶおばちゃんたちが「あれぇ、大損害だよ~」と皮肉をいう

すんごく嫌だった 誰でも覚えるまで時間がかかるよと心で反抗していた

2ヶ月くらい経ってようやく手順も覚え、ところてんを一人で作れるようになった

嬉しくて友人に持っていっては「俺のつくったところてんじゃ 食えよ」

でも同じように作っても寺山工場長がつくるのは弾力があり、美味しい

自分のはもろくて崩れやすかった

製造に余裕が出てくると、外を見る余裕も出てきた 向かいのタイヤ屋には友達の友達がかっこよくタイヤ交換をしている、おいらはおいらでかっこよくところてんを造ってるぞと すぐいい気になってまた溢れて大失敗をした

折板という板数十枚に流し込んで、冷まして固まったら、外へ運んで風で更に冷やす

その板を運ぶのに最初は4枚が関の山 足元はコンクリートが滑るのだ ところが慣れてくると6枚持って運べる オイラは「力持ちだ!」ってんで8枚持って周りにすごい!大丈夫?無理すんなよと言われてるのに、一度ならず二度くらい8枚持ったままスッテ~ン!と転倒してまた失敗・・・・一枚で1000円ちかくする8枚なら・・・そう何千円もの損害なのだ いったい自分は会社のためになってるんだろうか?

それでも会社からの初めての給料日 ドキドキ

朝早くから12時間働いても残業手当もないが、26000円頂いた 当時の東京での高卒の初任給が28000円だったので、そう悪くはない

母に言われたとおり、父へ給料そのまま渡した すると父は「おぉ!ご苦労さんだった はい!これはお前の小遣いだ」と言って6000円を私に 2万円は父が頂いた

友人に話すと「ひどい!自分で働いた給料を家に入れるの?古い!」驚いた

当時は東京から両親に仕送りしてる人は大勢いたと聞く

わたしの友人たちは誰ひとりいなかったのである そして夏頃になるとみんな車を買っていた 友人と遊びに行くと一晩で3000円位は飲んでしまう これではすぐに小遣いがなくなってしまう そう思って「酒を飲む付き合い」は極力断った

当時コーヒーは70~100円 喫茶店ならかなり安く付く 一杯のコーヒーで時間を長く延ばしてとりとめのない話ばかりしていた

ドライブに行って先でなんか食べるときでも友達におごってもらうことが多かった

そうでないと自分にはお金がないのだ  

 

だんだん友達に彼女が出来てくる 自分も紹介されてひとり彼女らしい人ができたのだが、あまり容姿など好きな人じゃないが、とりあえず誰かと付き合っていなくては、カッコウが悪いと思っていた 同じ年齢の女性は好みじゃない (そんな考えで女性とつきあっていては女性に失礼である)

でもそのAさんという女性は週に三度くらいは会社へ電話をして誘ってくる

会社の上司に冷やかされて参った 「のんさんの背中に電話をつけなくちゃ」余計なこっちゃとまた心で思った (今のように携帯があったらいいのにねぇ)

たまに会社を早く終わるとたまに書道教室に顔をだした(出さないと父が機嫌がわるい)

すると当時は若い女性も習字を習いに大勢きていたのだった

20歳になって自分も免許をとり、車を買ったころは父は必ず

「T子さん うちの息子が送るから心配しないで」と言うのだった

面倒くさいときもあったが美人な娘さんだったら、嫌なこともなかったので「いろんなお弟子さんを送っていった」

でも元来 あまり社交的でなかったし、自分に好意を示してくれる人もいたのに、気の利いたおしゃべりもできず、恋愛に発展することもなく 無駄に年月がたち、いいなぁと思う人はみな嫁に行ってしまうのだった

本家の会社に勤めて一年が立ったころ、盲腸になり入院した 退院して家で養生してたら、叔父さんが迎えにきて「なに休んでるんだ!今、会社は大忙しだ、早く来い!」と怒鳴られた

まだ本調子でないのにまた10時間の労働が始まった

冬になって腰の調子が悪いのに気づいた やたらに仕事中に腰を気にするのを工場長が「腰が痛いなら病院へ行ってこいよ」という

何だかイヤイヤ仕事をしてるように思われて嫌だったが、会社を抜けて整形外科に言った 問診で「あぁ力仕事で毎日限界を越えての筋肉を使うから腰にきたんだなぁ、これは椎間板ヘルニアですな、一ヶ月ほど入院して腰を引っ張れば治るよ、まだ若いから」

よく入院するなぁと母に言われたが、しょうがない

一ヶ月の入院は退屈だった 内蔵が悪いわけじゃない 入院してるほかの患者はみな年上でもっとひどい人が大勢いた 大手術した人も それでもおいらに遊びに行こうと誘うのだ 誘われて断れない自分がいた

夜こっそり抜け出して、映画観にいったり喫茶店に入ったり、パチンコをしたり 先輩がお金を出してくれるので、何度もいろんなところへ連れて行かれた

初めてSTRIPーSHOWも見せてもらえた

しかしある日婦長さんが怒って「あんたたち、間山さんを連れ出してだめでしょう」「間山さん、この人達と付き合ったらろくでもない人になっちゃうわよ」

そうして退院した私はしばらく会社を休んで家で養生していた

父も心配して、「おまえこのまま会社へ行ってたら腰が悪化するかもしれない」

「そうだ、書道の手伝いをしなさい」会社にはお世話になりましたと挨拶に行った

「習字の先生になるんだって?がんばれよ、若先生!」 照れてしまった

 

そうして翌日から習字の日には準備、掃除、父の隣りに机をおいて、始まると小中学生の子を一回目自分が添削をして、二回目は生徒が父の方で見てもらう 終わったらまたあと片付けと掃除

習字のない日は自動車学校へ行かせてもらった

週三日しか学校へ行けないので、なかなか進まない 二ヶ月もかかってようやく卒験

だが時間がかけた分、頭によく入っていたのか、理論は十分だった 実技は会社でかなり練習していたので、ばっちりOK! 仮免も卒験も順調にいった

早く公安委員会へ行って本試験を受けたくて予定より早く行った

いっしょの学校の知人も来ていて頑張ろうと励ましあった 発表で私とS君が受かりあとH君ともうひとりは落ちたようだった

受かったよ!と父にいうと待ってたように、オヤジはすぐに車を買うてはずをした

民謡の叔父の知人の自動車屋にちょうどいい中古車があるという

最初は新車買わないほうがいいとのこと、足立ナンバーで当時はやっていたニッサンサニークーペ1000ccを紹介してくれた

3万キロしか走ってなくて15万 車検も18ヶ月付きだとのこと

 

父はさっそくそれに決めた

1週間ほどでその車が届いた 初めての車がスポーツタイプでしかも当時珍しいオートマチック車だった

左足がなんだか変だった(使用しないので)信号が青になって自分のサニーが一番早く前に出るのだ それが自慢だった 友達もスゲェスゲェという

困ったのは毎週、父がドライブに行こうということだった

たしかに買ってくれたのは父だが、おいらにも日曜日など友達との付き合いがある

父には言えずに母いってようやく間接的に許されたようで、月に二度の日曜には友達と遊びに行けたのだった

(次回はいよいよ間山陵行 筒井の先生になる)