水茎の歩み 水茎書道院

水茎60年余の歩み 水茎の門をくぐった方が3000名を越えています 世界各地にその卒業された方が活躍をされています

みなさまこんにちは 水茎道人の水木龍(りょう)こと間山陵行です。

陵風躍進と困難の時代 その4 (新道場と内弟子)

S33年 子供たちが猩紅熱で一ヶ月の入院をし、ようやく退院したものの、女房の八重母さんが妊娠中で家事もままならないので、家事手伝いがずっと必要な家庭だった

私の記憶でも親戚関係のお婆ちゃんが二人、母のいとこが一人(石岡さん)、近所のおばさんが一人(藤田さん)、中学出たばかりの女の子が二人(キミコさん)(ミチコさん)もっといたかもしれません(順不同)

f:id:mizuki_ryou:20140607222139j:plain

 多少元気だった夏の母 となりの奥様と(昭和29~32年いづれか不明)

 

 

今のように洗濯機があったわけじゃありません 一日3回のご飯したく、一家5人の洗濯、とくに子供達全員がねしょんべんをたれていたそうですから、それはそれは大変な量だったと思います

そしてまた新たに赤ちゃんが生まれる 

はたらけど
はたらけどなお、わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る

石川啄木『一握の砂』にあるように若い陵風は大変な困難な時代であったことだろう

それを頑張れたのは、師匠がすすめる国柱会の教え(日蓮の教え)と、母つえの深い愛情、一緒に南無妙法蓮華経と何千回唱えたことだろうとのちに話してくれた

5月9日、無事男の子が誕生

後日名前を父が壁に張り出した 「武和」

五月に生まれたので武者人形の「武」、それでは剛すぎるので、「和」で調和してタケカズと命名したのだった

みんな赤ちゃんを「たけちゃん」と読んだ 末っ子のことを津軽ではヨデッコという

めんこくてめんこくてたまらないので、つい可愛がりすぎて、甘えん坊になるので、「ヨデッコ」だもんなぁ仕方がねぇなあと言ったものだった

ちなみに一番目の兄はあんさま、あんちゃま、次男はおんじ、おんちゃまと呼んだ

女の子は?知らない、やはり津軽では男尊女卑があるのか、女の子のそうした呼び名は考えていないのだろう 

でも男の子を「わらし」「わらはんど=子供たち」というのに対し、女の子は「めらし」「めらはんど」と呼ぶ

そして津軽ではなんにでも・・・「こ」をつけるのはご存じだろう

箸っこ、ねごっこ、おもちゃっこ、だから、おんちゃま(次男坊)も「おんちゃこ」末っ子は「よでっこ」になった

 

 

 

 

さて4人目の子が生まれて大変賑やかになり、家事はいっそう大変になり、家事手伝いも新しく若い女の子がくるようになった

まだ15歳のミチコさんさん あっしらガキには大人に見えたが、買い物、洗濯、炊事など大忙し 記憶はあまりないのだが、たぶん我が家に住み込みで働きにきてたんでしょうなぁ 一家6人にミチコさん 狭い家に賑やかな暮らしだったことだろう

S35年母の健康状態がおもわしくなく、親戚に預けることになった

それを引き受けたのは、ほかならぬ筒井の教室のを世話した陵風の姉の山口初恵さんだった 彼女も5人の子(正典、ゆう子、正博、久子、正昭)を育てていたが、身体が丈夫だったので、OKしてくれた 当時は野内の駐在所だった 遊びに行ったことがあるが、まるで八戸くらい遠いところのような感覚だった

たけちゃんは粉ミルクを飲んですくすくと育ち、まるまると太っていた

3ヶ月くらい経って秋頃だったかにたけちゃんは帰ってきた

まだ床に伏していた母だが、「あれぇたけちゃん母さんだよ」と母がだっこの仕草をしたら、たけちゃんは首を振って泣き出したのだ!

3ヶ月でもよその家に行くともう母を忘れてしまうのか・・・兄貴としても複雑な気持ちで母の涙をながめていたものだった

きっと山口の叔母の家族もみんな兄弟だと思って可愛がってくれたから、間山の家に返すのは偲びなかったかもしれない

 

**************************************************************

家庭ではこんな大混乱があったが、書道のほうは徐々に生徒も増え、教室が狭くなってきた

たけちゃんが生まれて狭い 思い切って父は向かいの佐藤大工さんに頼んで家を増築することになった

f:id:mizuki_ryou:20140531101756j:plain

 

 

 

ちなみに我が家の隣りに小さな家があった そこに警察官の赤坂さんという若夫婦が住んでいた

その家は間山の所有で貸していたのだった 詳しいことは知らない

その家を移動させ間山家の家も後ろにさげて、新しい道場の部分を増築したのだった

私も幼かったので、当時の家の寸法などあまり覚えていない

我が家は当初旧線路通りまで所有していて150坪くらいはあったそうだ

つえおばあちゃんが買ったのだが、売った人が二重転売していて、裁判に負けて旧線路側が取られてしまったと聞いている

大変残念な話だ

うちのすぐ裏には細い路地があり、西沢の自転車屋があった記憶があります

私より3つくらい年上の方だったらもっと知ってるのかもしれないが、そんな方がいたらいろいろ聞いてみたいものだ

話が横道にすぐそれてしまう

f:id:mizuki_ryou:20140531101722j:plain

 

新しい道場はピッカピカで板の間だが、24畳くらいあった記憶がある

子供にはもっと広く感じたが、当時はそれで十分だったようだ

落成式には民謡の偉い『成田雲竹先生』『竹山先生』がおいでになり、魂入れの会をし、国柱会、立憲養正会の大会など、また祝賀会、葬式などもこの道場で行っていた

なんと忙しい家であったことだろう

 

小学4年になった兄と3年の私といっつも掃除や準備など手伝いをさせられた

そして筒井の支部のお弟子さんでK・チエさんというまだ高校生の子が内弟子に入ってきたのもこの頃だった

母も親戚も猛反対したというが、チエさんというその人は強引にリヤカーに荷物を積んで来てしまったという 幸畑の部落の農家の娘さんで、父は立派なブドウ作りの名人、チエさんの兄弟もみな優秀で大学まですすむ勉強一家だったのだった

筒井支部は田舎でも子供たちは優れた生徒が多いと父は話していた

なにかあればすぐあの遠くから集まってきて動いてくれた

人望がある父だったのだろう 記憶では筒井小学校裏の農協ちかくの佐々木さんなどは、父の支援の第一人者だった

そして中筒井ではK・慎太郎という生徒が、父とケンカをし間山陵風を頼って泊まりにきたこともあったそうだ そんな幾多の喜怒哀楽な逸話を聞いている

しかし正確でないのでそれは割愛しよう

筒井支部から内弟子に入ったチエさんばかりじゃない、自分も入りたかったという他の生徒もまだいたようだ。チエさんの近所の佐々木さん、中筒井の徳差さん

理想の書道を弁ずる若い指導者を信望する弟子は多かった

ちょうど幕末の高杉晋作伊藤博文が学んだ「松下村塾」のように父は学校とは違った独自の教育を書道を通じて行ったのだろう