水茎の歩み 水茎書道院

水茎60年余の歩み 水茎の門をくぐった方が3000名を越えています 世界各地にその卒業された方が活躍をされています

みなさまこんにちは 水茎道人の水木龍(りょう)こと間山陵行です。

陵風躍進と困難の時代 その3

昭和27~33年は

初代の間山陵風は家庭をもち、北片岡(長島)に居を移してから、書道の教室を開き大きく発展する基礎作りに入っていました

しかしながら子育てと女房の虚弱体質、子供達の病気と重なって家庭的には苦労の連続でした

それを助けたのはほかならぬ陵風の母親(つえ)だった

柳町の南側に旧線路通りがあり、更に南側にこんにゃく屋さんがありました

そこが父間山陵風の生家であった 距離にすれば800m、子供の足で歩いて10分 母の容態が悪ければ走っていけば3~5分でつくのだった

こんにゃく屋は朝から忙しく、いつ行っても活気があった

お婆ちゃん(父の母)は「よぉ来たな のんぶみ~(私の呼び名)母さんまんだ悪してらのが、待ってろぉ~今行がはんでなぁ・・」優しく頭を撫でてくれてお菓子を手に持たせてくれる人だった

床に伏せてる母をさすりながら、一生懸命拝んでるその姿はまさしく仏様のようだった

つえお婆ちゃんは近所の方にも分け隔てなく言葉をかえ、こんにゃくなど余れば分配してあげ、優しい言葉を

かける人であった 仏様の教えの慈悲やお布施の実践を積極的にする方だったと思う

 みんなみんなこのおばあちゃんが大好きだった

 

 

まだお腹がそんなに大きくない昭和32年の冬、兄が猩紅熱(しょうこうねつ)にかかった またたく間に妹に私に伝染し、入院隔離されることになった

伝染病ですから、保健所の方がきて、家全体を消毒したと聞いている習字のおケイコを休業したのかどうかは聞いていないので私も知らない

本家から民謡の叔父さんがトラックを出してくれて、八重田の県病隔離施設に連れて行かれた

子供にとってははるか遠い外国へ連れていかれたようだった

森と林しかないところだった

途切れた記憶をつなぐようにして思い出していますので、間違いもあろうかと思いますが、その点はよろしくお願いいたします

その病院は猩紅熱やジフテリアなど子供たちだけの施設だったようです

大抵は母親が一緒に付き添って泊まっているのでした

朝から晩まで子供たちの洗濯に追われていた母でした

兄小学1年、私は一つ下の6歳、妹が三才

とくに妹は百日咳で死ぬほどの病を経験したので、気難しくいつもしか目面をして、ムズってばかりいて母を困らせていたようです

おまけに母はその時に妊娠5ヶ月でした まぁ安定期とはいっても病弱な母にとっては辛かったと思います

症状は忘れましたが、お腹や手などの皮がむいてもむいてもむける?母の話では猩紅熱と水疱瘡が同時にきたと言ってたが・・・??

子供達にとっては1ヶ月の入院生活は注射と薬は嫌だったが、ほかは楽しいものでした

ご飯のチャイムが鳴ると大喜び、食事にかならずグリコのお菓子が付くのだ

そしてそれはオマケのおもちゃが付くのだった

隣りの部屋の同い年くらいの子供達と遊んで大騒ぎ 兄はビッタ(メンコ遊び)やコマ回しをして弟の私にも教えてくれた

でも一緒に遊んでいた子供が急に姿が見えなくなり、どうしたんだろうと母に聞いたら、亡くなったと聞いて驚いた ジフテリアだったので猩紅熱より重い患者さんだったのだ その頃はまだ死ぬという感覚がよく理解出来てなかった

父が伝染病の病棟に入られないのに、窓から侵入して看護婦さんに叱られて、注射された事もあったそうだ

退院間近のころ、クリスマスにはやはり窓から大きな赤い服をきた人が入ってきた 『こんばんは~♫みんないいこにしてるかな~?』

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兄と私はすぐにサンタクロースだと分かり、大喜び

でも妹はびっくりして大泣き サンタさんが「はい!」とプレゼントを渡すと妹は泣きながらもそのプレゼントをグイッと取った みんな大笑いだった

もちろん院長先生が化けていたのだが、子供のころのたった一度のサンタの体験だった

退院のときにまた本家の車に乗って帰宅したのだが、冬で当時は除雪もままならない時代

運転していた若者の寺山さんが、自宅の前で車が雪に埋まって動かないのを窓からじっと眺めている自分の記憶があった

それから母はまた寝たきりになってしまった 妊娠5ヶ月の母にとっては入院の付き添いは大変なことであったと思います

4月の私の入学式(一年生)も出られずに、父が代わりに出席してくれた

母も怖いが父の怖さは半端じゃなかった まだ5、6歳の子供にも言う事を聞かないと容赦のないげんこつの制裁が待っていた

習字ではニコニコと笑い機嫌のいい父がいったん家庭にもどると何が気に入らないのか、ご飯中にガミガミと母を説教していて、恐ろしい日々が多々あったのだ

下手すれば飯台(丸い飯台)をバァ!!とひっくり返す父であった

昭和のガンコな父の典型であった(ノ`m´)ノ ~┻━┻ (/o\) オトーサンヤメテー!!

反抗することもなく、泣きながらそれを片付ける母を可哀想と思いながらも、小さい私たちもただオロオロするばかりだった

そんなときに本家からおばあちゃんが偶然来ることも多々あって救われた

「なに大きい声だしてらんだばぁ、通りまで聞こえでらよ、ほれ母さんも謝ってらはんで、もういがべ、さぁさぁわらハンドさ『団子』持ってきたよ』

信心深いおばあちゃんは本町の蓮華寺に良く行き、その帰りに立ち寄るのだった

父は幼いころから足を悪くして、厳しい療養に耐えた人で、激しい喜怒哀楽の性格で、まっすぐな性格で心にゆとりもなかったのだろう

そのエキサイトな性質は間山家の伝統だと聞いてはいるが、父の父(祖父)もそうだったし、長男の沢一もしかり、次男の沢義もよく奥さんを殴り飛ばしていたそうだ よく昔の人は辛抱強かったと思う 今なら一発で離婚だと騒ぐであろう

でも生徒の前での父は包容力たっぷりで、どんな事も知ってて、生徒からの質問にもすぐに明快に応えるので、その信頼度はすごかったと思いますね

怖い父であったが、なんでも知ってて何でもできる父はスーパーマンで兄と私にはかっこいい自慢の父で世界一の父であった

ときどき親戚のおばさんが来ると、私らにこっそり『母さんを大事にするんだよ、大きくなれば分かるから、母さんを守るんだよ』というのだった

子供の私らに何のことか知る由もなかった

 

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