水茎の歩み 水茎書道院

水茎60年余の歩み 水茎の門をくぐった方が3000名を越えています 世界各地にその卒業された方が活躍をされています

みなさまこんにちは 水茎道人の水木龍(りょう)こと間山陵行です。

筒井教室 50年めの大変革

時代の波は私の本拠地である筒井教室にも押し寄せました

大家さんの土田さんの家も30年を過ぎて変革時にありました

昔から広い土地をそのままにしておくのは無駄じゃないかとの声を若旦那さんは聞いておったはずです

2007年からその話はうすうす聞いておりましたが、愈々2008年(平成20年)に入っての4月末に旦那さんが教室をたずね、今年の夏に土田商店を解体、そしてこの教室を解体したいとのことでした

きたか・・・ついに・・(>_<)このときが

しかし土田さんは、水茎さんと長年やってきてこのままやめさせるわけにはゆきません、教室を新たに考えていますとのこと

その青写真を伺った

それは現在の土田商店の場所は大きな駐車場になり、習字のあった場所がローソンになります(ローソンは他人名義)そして西隣りの若松さん側に土田さんの邸宅とご主人のお店(カントリー雑貨)ローソンの背後には、ご主人の両親の家を、

そのまた後ろ(原っぱ出会った場所)にアパートを建設するという内容であった

じゃあ習字の教室はどこかというと、図を参照のこと

青高の向かい側で 間口は狭い奥行がややある

そしてその家の間取りもうかがった 玄関、トイレ(水洗)流し

そして教室は9畳くらい いやぁ狭いなぁ

まぁそれでも新しいからいいかと納得した

しかしその後また変更があるというので聞いたら 9畳じゃなく6畳くらいになるという 9畳なら先生にかかる負担が大きくなり(家賃工事費など含めて8万くらい?)6畳なら7万くらいでなんとかなりますとのこと

 

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ウ~~ン 大家さんは一生懸命にこちらのことを考えてくれた結果である

 

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しかしいくら新しくなるとはいえ、教室が6畳くらいでは教卓もあり、仮に9畳でも机が7個くらいしかおけない これで40人の生徒を回すのは大変

考えさせてくださいと返事を保留した

さぁどうする 生徒の減少で収入が落ち込んでの16万くらいその半分を家賃で持っていかれる その頃本部と大人の教室もあっても家賃を差し引けば20万を下回ってしまう 

どこか筒井近辺で貸すとことないかいろいろ探し回った 習字教室というと汚されるという頭がある 空き家でないとダメ

そうなると古い一軒家 そう簡単にはみつからない 1ヶ月考えたあげくに

あぁ!川の向こうに奥野市民館があるぞ むかしそろばんで水茎と張り合った塾があった 生徒が次々とそちらへ流れていったことがある 現在は?

連絡をとって町会長さんと話ができた

現在女の先生が月と金にそろばんで借りているが、ほかは空いていますとのこと 使用料はと聞くと一日で3000円くらい 半日だと2000円くらい

とすれば半日で2000 週4日で8000円 月に16回32000円 これなら前より安い でも奥野市民館4日は無理だったので、(長島もセンターもあるので)週2回借りることに決めた

 

そうして正式に土田さんに報告した

そうしたら「そうでしたか、先生にはご心配おかけしました

 市民館なら近いし私どもも安心いたしました」

こうして土田さんとの貸借関係はS29年からH20年までのなんと54年の月日に幕を閉じたのであった

本当に長いあいだありがとうございました

新しい奥野市民館は9月より始めた

古い教室が8月のお盆あたりに解体するというので、教室よありがとうの式典を生徒間でおこなった

 

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そして市民館では10月に移転記念のお祝いパーティを開いた

その時に土田さんにもきていただいた

残念ながら、若旦那さんの父親が新しい家に入るまえに、ガンという病でご逝去されたのだった 可哀想なのは奥様であった70代後半になりゆっくりご夫婦でくつろげるはずだった 

奥様にはいろいろお世話になり、いろんな思い出がある

どうしていらっしゃるか、お元気であれば今83歳くらいでしょうか

 

さて奥野に移ってからもうすでに6年の月日が流れました

水茎はなんとか持ち直して珠算もまた復活して生徒も増えました

でも目標は土田さんのところにいたH20年の頃までの人数に戻したいのです

習字40人そろばん20人 これくらいいれば経営的には余裕がでます

まだ62歳 あと20年は頑張って地域のために役立つ教室になりたいと願っています

 

 

 

 

初代 間山陵風の円熟・病・逝去 私の苦難

盛衰とはよく言ったもので、

水茎の大盛況時代も徐々に陰りをしめしてきたのは

やはり少子化問題もあったかもしれません

また、民謡の道場が離れて別々になったのもあるかもしれません

また、息子たちがそれぞれ家庭をもって、本部との意志の疎通がうまくいかなかったというのも原因かもしれません

弟はともかく、私自身が家庭をもって情けないことがありました

最近の若者は精神的に幼稚と父が言ってたが、今考えてみれば幼稚だったと思います いつも両親に心配かけていましたね 子供が3人もいて精神的に不安定でした それでは会も衰退するわけですよ

まぁ原因は一つというわけじゃないですが妻の母がガンに冒されてて、療養後亡くなります。その後若い夫婦は頑張りますが、意見の相違からとうとう離婚という結果になってしまいます

子供たちもみんな母のところに行って寂しくなって、特に母親は寂しかったと思います ちょうどその頃、母はアルツハイマー的になっていましたし、父も肺気腫の症状が出たころで、(62歳ころ)歩いたりするとフ~フ~と息切れをするようになりました

相変わらず社会保険センターは忙しく父もなかなか病院に行かないのです 

年一回の社中展はそれはそれは大人の会員も多いので、忙しく展覧会が終わると父はグッタリと寝込む日が多くなりました

父と母の病はもしかして自分たちが原因ではないかと、反省もしましたがあとの祭り

私はセンターの手伝いもするようになり、父を懸命にサポートいたしました

父がとうとう入院することになったときは覚悟を決めてセンターの一般の会員さんのお稽古を代理で行いました

多忙もあって弟とともにやっていた損害保険の代理店の仕事をやめて本格的にまた書の勉強もいたしました

センターでは古典の勉強や、ペン習字の指導もありましたので、あちこちから指導書などを取り入れて、工夫をいたしました

この仕事で自分は大人の会員たちの指導にも自信を徐々に深めていったのです

しかし社会保険事業の本体が、この頃元から崩れ落ちる問題が噴出して、年金のあり方が問われ、保険料を払ったのに組み込まれていなかったり、払っていないのに組み込まれたり、もう年金の財源を使って全国のあらゆる施設を(箱モノ)造っていたり、トップの方々のやりたい放題でした。

その影響で、我々の地方のセンターも使用出来ないハメになり、いろんな講座の指導者たちがバラバラに散ってゆきました

幸い私はほかのところを借りて続けてはいますが、なんといっても社会保険の公的機関がPRしてくれたものですから、新人も毎年入れ替わり入会していましたが、バックアップがなくなり、会員はどんどん減る一方でした

書道が常時35人くらい、ペンも30人はおりましたが、場所を変えてからは半数以下に減ってしまいました

そしておりからの少子化、子供の生徒も減少をたどり、父が入院のころは本部支部あわせても90人くらい まだなんとか経営は成り立っていました

そして入退院を繰り返していた父は平成10年ついに力尽きました

田舎の先生ではありましたが、まぁ県展の審査員にまでなった父の葬儀には葬式、通夜あわせて700人ちかくにもなりました

書道関係者ばかりじゃなく、絵画、彫刻、俳人歌人、舞踊家その他のジャンル 政治家も多く訪れました いかに父の徳の高さを知ることになりました

葬儀後でも、遅れて焼香に訪れる人が次々とまいるのです

ようやく49日が経ったころ、力がぬけたようになり、一気に悲しみがこみ上げてきました

「あぁとうとう自分は一人ぽっちになってしまったんだ」

気丈に頑張ってきた自分も涙があふれて声を出して泣きました

 

スタッフ4人で力をあわせていた時代 今は一人ぽっち

誰の力も頼られない 自分の力でやるしかない

そう思ってまた頑張りました

そしていろんな難題が訪れましたが、乗り切って現在があります

父が亡くなって16年 まず「本部」の長島教室を閉鎖し、近くの柳町地域館に移動させました 長島の家が古くなり維持してゆけないので、不動産に頼んで売りに出していました

2年間全く売れずに諦めかけていたころ、買い手が現れたのです

丁度そのころ、昔の教え子でアラファーの女性が遊びにきました

懐かしい筒井の教え子でした いろいろ話したら向うも関東へ嫁に行ってバツイチで地元に帰って働いている

母から昔の先生がバツイチで一人で教室を頑張っていると聞いて顔を出したというのだ

何日か会って話をしてるうちに、意気投合して交際が始まった

それが現在の妻である

ちょうど、父が亡くなって傷心のころ、仏壇に向かって祈っていた

「仏様~自分はこうして一人で頑張っていますが、父も亡くなり、母は寝たきりでもう家には帰られない人になってしまいました 妻と子供たちとも別れては、私には生きる気力さえありません どうか私に丁度良い人をお与えください 一生懸命働きますので、水茎をもう少し頑張って盛り上げていきたいのです よろしくお願いいたします」

こうして何度も拝んでいたものでした

祈りは通じたのでしょう

私の前に現れたのは昔の父が初めて支部をつくった交番

その同じ交番にいた警官の娘のH・Hでした

小さい頃からよくなついて一生懸命に頑張る子でした 私は得意な百人一首をよく生徒に指導していましたが、中でも特に優れていた生徒でした

 

まさかその子が成長して、お互いバツイチではあるが、こうして「めぐりあう」なんて・・・

なんという境遇だろうか

私は偶然という言葉を信じていません

むしろこれは「必然」であり、運命の糸はみずからたぐり寄せられるものだと信じています

「求めよさらば与えられん」

いかに神を信ずるか どれだけ心を開いて素直に神様に向かって真正面から向かえるか・・・だと思っています

まさかなぁ・・と疑っていては運命は開かないのですね

 

 

話はもどって、彼女の支えがあってこそ、今多くの困難があってもなんとか生活を維持してゆけました

まぁ水茎は私二代目で終わるかもしれませんが、父と私ですでに3000余名の人々が門を叩いて社会へ散ってまいりました

いくらかでも社会の役に立ったのであれば本望です

万が一にも、書を引き継いで頑張りたいという人が現れるかもしれません 希望は捨てていません

だから一生懸命に弟子を育てています

あと20年はやりたいと思っています

 

水茎の作品ブログがほかにございます

生徒向けに情報を発信したり、私や会員、生徒の作品を紹介したりするブログです。

 

「水茎 ゆっくり書こう」

http://d.hatena.ne.jp/mizuki_ryou/?_ts=1338307013

筒井教室大盛況の時代 昭和48~平成5年

生徒がどんどん増える嬉しい悲鳴

昭和48年夏 大家の土田さんから「今度の夏に道路拡張のため、店を解体して、家は新築、残りは後方に移動させて教室は今の二倍になります」との話

願ってもない話で私はたしはワクワクいたしました

しかし教室は約一ヶ月お休みになるので、その間に生徒がいなくなってしまうんじゃないかと心配しました

新しくなるという休みなら希望につながるもんだ 心配するなという父

生徒たちには「一ヶ月間、待っててください、もし出来る人は長島の本部教室に来てください」

するとなんと15~20人はあの遠い筒井から長島まで通ってきたのでした

バスで来る人 歩いて来る人、自転車で来る人 送り迎えされた人 さまざまでした

勿論完全に休んでしまった子も半分以上ありましたが、教室が完成してヤメた子は数人程度ですみました

新しい教室は店の前面を解体し、残った部分をトタンで覆ったものでした

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これしか写真がありませんので二回めです

多少右側が削られたようですね

教室は左側で以前、大学生に貸していた部屋でした。ふすまを外し畳をとり

荷物を置けるように天井ちかくに棚をつけていただいた

広さは18畳はあったと思います

また後ろに障子があり、開けるとトイレと手洗い場がありました

隣接した部屋は事務所に貸しましたので、共同でトイレなど使うのでした

それでも以前に比べて比べ物になりません

ありがたかったですね

それまで家賃は5000円だったが、大家さんから「二万」で頑張ってくださいと言われたときは驚きましたが、

二ヶ月もしないうちに、生徒が100人を突破いたしました

前の教室はお店の隣りでおよそ隔壁されてはいなく、全くのプライベートもない筒抜けでしたので、大家さんとかけ離れて、自由にのびのびと指導できるのがなにより嬉しかった

また新しくなった教室を見にくる子達が次々と訪れ、生徒たちもまた連れてくるのでした。

49年には4月だけで10人、毎月平均3~6人の生徒が入会していた時期でした

また自分も若くはつらつとしていたと自賛しますが・・・(´Д`:)

 

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(91年だから23年前・・陵行は30代後半です)

 

55年ころには書道160人、そろばんが75人に達しまして

もう一人で教えるのは限界がありました 

向かいの筒井小学校は1400人はいたでしょうか

その頃 浜田のほうに新しい学校ができました

「浜田小学校」です 多くの子が筒井から浜田小学校に移りました

それでも筒井小はすぐに生徒がふえるのです

学校の南側にすみれ団地、また奥の方にどんどん団地が造成されていました

まず幸畑小学校ができました それによって幸畑と松本台団地の子が筒井から

移りました 300人は少なくなったはずです

(やがて筒井南小学校もできて、筒井小は600人まで落ち込んだのです)

 

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生徒増加による混乱

ここで塾や教室を開く方のために申しますと、70人を超えると正直2人はスタッフがいないときついですね。

また時間制にしないと、一定の時間に生徒が溢れてしまいます

私もそれで悩み、今までのように気楽に生徒とふざけたり。遊んだりする余裕もなく、生徒が騒ぐと混乱してしまい、大きな声で叱ったり、言う事をきかない生徒をつい叩いたりしてしまうことがありました

 

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(約28年前の教室内=昭和61年(1986)ころ)

それでも昔の時代でしたので、どこの親御さんも文句を言いに来る人はありませんでした(今なら大問題になりますね)

父もそうでしたが、やはり教え方が似るもので、言う事をきかないと体罰を普通にやっていましたね

(現在はほとんどいたしません)

昔はそれだけ先生は絶対だったし、信頼もあったのかもしれません

(そろばんを始めたことは、また後に詳しく書きます)

夏休みだけでもと珠算はコースを決めて A、B、Cコース に分けました

夏休みは朝にやりましたので、Aコースは9~10時、すると外に20人くらいの生徒が待っているのです Aが終わるとすぐに生徒を入れ替えてBの授業が始まります そのうちにCの3級以上の子が待っています

Bが終わるとまたすぐに入れ替えるという忙しさでした。

また自転車が溢れてしまい、大家さんがきてヒステリックに「自転車なんとかして~」と注意されることも多々ありました

生徒の中には決められたところに自転車をおかずにとんでもない場所に置く子もいて、その整理に大変でした 狙われて盗難にあうこともしばしまでした

 

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{1976年(昭和51年)ころ、教室も狭く感じます}

 

生徒が多いならではの苦労でした

生徒もイライラすると、玄関の大量の靴をみて、何足か隠してしまういたずら

近くの川に捨てるという事件もあった

あるいはいたずら電話もしばしばでした

また近くの教室の先生からの文句もありました

「お宅のではうちの生徒をあからさまに盗んでるんですか?困りますな」

もちろんその逆で、私の教え方などにも問題があったはずです

よその教室にこっそり移ってゆく子がいて、それを知った時にはショックでした

一体なにが原因だったんだろう?自分の何が悪いのだろうか?

原因はいろいろ考えられました

★生徒が多くて待ち時間が多い

★先生の教え方が雑になった

★えこひいきがある(これは気をつけててもなかなか難しい問題)

★怒られてフォローがない、くやしい

★仲の良い友達がよそに行ってるので自分もそちらへ(これはやむを得ない)

★生徒間の確執やいじめ

本部などでこれを会議で相談したこともあった

まぁ解決法は先生自身がおおらかになり、生徒ひとりひとりに対し目をかけてやることに尽きると父に言われたものです

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こうして書道と珠算と毎日教室はフル回転でした

また独身時代の20代は休みでも出てきて、習字を調べたりしますと、生徒が覗きにやってきて、中へ入ってきて自然に手伝ってくれる子もいました

するとご褒美になにかあげたくなるのもです

近所の店、またはジャスコまでいってお菓子を買って公園で遊んだりしました

あるときは生徒たちと一緒にスキー、スケート、夏休みだと岩木山の登山に何人か一緒に行きました

また海へ泳ぎにも行きました

またお母さん方も信頼してるのか、よろしくお願いしますと

お弁当を作ってくれる方もありました

夜遅く帰っても、逆に「先生疲れたでしょう、晩御飯食べて行ってください」なかには

泊まったりするほど家庭的なお付き合いをしてくださる家族もおりました

今なら信じられないでしょう

何か事件があり怪我させたら大変です

若いもんだから、いっさいその警戒もなかったようです

幸い何事も起こらなかったのは不思議です きっと守られていたのでしょう ご先祖様ありがとうございます

昭和時代はそれほど皆さまが温情が深かったのですね

まぁ平和だったのでしょう ともかくあの頃がとっても懐かしく

私の人生でも最も輝いて幸せだったかもしれません

収入ももちろん20~30代が一番稼いでおりました

今の3倍以上ですね

もちろん本部の先生に収めて私は独身時代はお小遣いだけ貰っていたのでした。

 

 

 

 

 

 

父子 内弟子4人で展覧会三昧の時代(水茎最盛期)

次男坊の私が書道をやってて、弟のTにも影響を与えたかもしれない

弟とは7歳違いで、小さいころからよく自転車に乗せてあちこち連れて歩いたものだった

私が高校のころは、いわゆるチョイ悪に憧れてて、道ですれ違った少しトッポイ(ヤンチャデ カッコウツケテル?)少年と目があうと、よくにらみ合ったり、喧嘩になったりしていた それを横目で見ていた弟は、優しい子であったが兄さんはすごい、習字も頑張るし、運動神経も抜群(体操部だった)ので、多少のあこがれはあったのかもしれない (後に習字の塾を始める)

 

高校を出た弟はいったん紙業の会社に入ったが、やがて弘前の家電店を営んでる叔父さんの所に住み込みで就職した そこで頑張っていたのでもしかしたら将来その電気屋の跡取りになるのかなぁと思っていた

ところがそれもいろいろ悩みが生じて、父に相談して書道教室を開くことになった 彼は私のように代稽古をした経験もない 大丈夫だろうか?

小さな頃から引っ込み思案で、兄たちが前面にでるのでその機会がなかっただけだったようだ

幸畑の団地に一ヶ所、沖館の親戚の家に一ヶ所 教室を開きなんとか頑張っていた ライバルの他団体の教室との競争もあり、なかなか増えない

そこで英語の得意だった彼は習字、珠算、英語の3本立てでなんとか暮らせるように頑張っていた

父も本部のほか、ある町内の幹部がバスを買い取って父を招聘したのだった。(古川教室、相野教室、長島本部)陵行が(筒井教室、八ツ橋教室)弟が(沖館教室、幸畑教室)計7教室の時代があった

発表展覧会はそれはもう大変な作業であった 先生スタッフが4人いたわけだから、会議をかなりやって意見を出し合い、社中展、研修会、市民展、県展、そのほか夏や冬休みの作品を学校に出させたり、院内での誕生色紙展など大小あわせて5~8回もの仕事でした そのほか、古典研究会や森田子龍先生(墨美)の課題の研究会まであって、忙しいの究極でした

(私も弟も妻や子がいてそれは大変でした)

そのほか、父の兄の民謡外ヶ浜会の手伝いなどで、体もフル回転だった

社中展のときには他団体の先生方がかなりお見えになって、父に

「やぁ間山先生、息子さん二人もいて羨ましいですなぁ!」

300人もの生徒一般の弟子がいて、内容はともかく大盛況にみえたはずです

かなりやっかみや酷評もあり、父の陰口をたたく人もいた

 

なんといっても父は昔は中央の作家として活躍するはずで、北門や奎星、翠軒流の星雲などに参加して、墨美の森田子龍の研究会にも所属して作品研究会をしゅっちゅう行っていた ところがそれらを全て離れて独自の方向にいったものだから、どこの会派にも所属しない会はありえないといった見方をされていたのだ

しかし宮川松子先生や、一戸金鶴氏、白浜朱學氏、鈴木柳雪氏、山田翠城氏、和田現氏、小田桐半草氏、中村翠江氏、など会派を越えての交際はまぎれもなく続き、間山陵風の揺るぎない力はあったのだった

 

東奥書道の幹部で青森蛍雪書道会主の鈴木先生が、「間山さんの息子さんたち、石彫るのをやってみねべが?」という誘いから私と弟が石心会に入会した

ただ自分たちのハンコを作りたいがために入ったのだが、段々上達すると、刻字展に出してみないか?または書道芸術院展に出してみないか?

言われるまま出してみて驚いた まだそんな彫れるわけでもないのに、石心会主の千田得所先生がお見えになり、講習会(展覧会に出品する作品の製作日みたいなものだった)があり、我々の彫ったものは、かなり手直しされて、見違えてしまいった 篆刻だけじゃなく、刻字(板)などそれらを出品して「佳作」や「入選」を繰り返した 審査会候補頑張れと励まされたが、何だか違う方向にいってるなぁと思ってたら、千田先生から「次は日展を狙う」となり、また会員の先輩が良い賞を取っていて、その御礼なのか、講習会の合間にこっそり金一封を渡してるのが見えた あぁこれはついていけない 

そう思って私は石心会を離れたのだった

当時、県展の祝賀会に行っても懇親会では、読売に出さないか?毎日展に出さないかと誘いを受けた みんな兵隊がほしくてたまらないのだ

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私も弟も私的には結婚などもあり、家庭をもつというと何かと出費がおおくなり、展覧会に参加する諸経費はかなりきつくなっていた

子供も生まれ、会の運営会議も出来ない日もあり、団結力が弱まっていった

それに加えて少子化の波と、バブル崩壊の時期にさしかかっていた昭和63年ころ(1980年代後半)から特に珠算のほうが落ち込んできた 高等学校では珠算の授業を廃止し、PCに切り替えた そして平成に入ってから少子化が加速をはじめ、どんどん学校の生徒数も減少していく

それでも我が水茎は場所がよかったために生き延びていたが、小さな塾などは消えていった 

弟の教室も例外じゃなく、経営が苦しくなって教室と日新火災の保険の代理店を始めて二足のワラジを始めたのだった

子供の成長で生活費のやりくりが問題になるがこちらの給料を減らすわけにはゆかないので、本部へ出すお金がドンドン減っていく、すると本部も事業を縮小せざるをえなくなる

悪循環でした。ついに弟が教室閉鎖に追い込まれた 

父も古川や相野はやめて、本部とあらたに社会保険センターの書の講座に行った 私は筒井と本部の珠算を担当した これで教室は(本部、筒井、センター)と三ヶ所に減った

まぁセンターだけは年金暮らしの方の増加で、逆に盛況を遂げこれで水茎の命はつながった

 

間山陵行の迷い(20代)

迷い

書道の家に生まれて、運命とは今まで逆らうことなく、父のいいなりでやってきた

そして19才の若さで支部教室を任された

子供は好きだったが、いきなり70名の生徒は重かった

教え方が違うとか、気のきいた会話もできない若い新米先生は悩んだ

師範の資格もまだとっていない 中学や高校生や大人の生徒に教えていく手順がよぉく分からない ただ父からもらった手本と違うところを直すだけ

これでは生徒もついてこない 

「明日学校で文化祭だって?なにを発表するんだい?」こうした会話さえもスムーズにできない男だった

相性のいい子は少しはいた それが救いだったが、あとは苦痛とストレスで肩こりがひどかった そして目まで疲れてたまらなかった

休みに友達と会うと「よっ先生」と言われるとムッとなって拒否したりした

忘れたいのだった そして実家(本部)の教室にも顔を出さなくなってしまった

そんな様子を父は見逃さなかった

オフクロと息子の相談をしてるようだった

「どうも習字は男がする仕事じゃないかも・・・オラは男だが、足も悪くしたし、これしか生きる道がないから必死だったが、息子のことを考えるとちょっと酷だったかもしれないなぁ・・・・」そう両親が考えていたようだ

そしてある日、「どうだ、筒井の支部は妹の澄子にやらせるから、おまえは市役所にでもいかないか?オラの同級生が人事課長してるので、聞いてみたら了解したといってるので、明日にでも挨拶に行ってみるが」

えっいとも簡単に許してくれるのか?と重荷から開放されるという気持ちと本当はやり遂げたいのに出来ない不甲斐なさで複雑だった

T人事課長さんの自宅に父と挨拶に行った

「おぉ!君が息子さんか、あのね昔だったら世話になった友人の息子さんならすぐにでも入れるによかったんだが、今は厳しいんだよ、臨時のアルバイトで何年か働いてくれたらいい、そして年2回くらいある採用試験を受けてくれたらいい、成績がよかったら威張ってとってあげることができるよ」

そうして私は市民課で働くことになった

私はかつてK先生と行ったように今度は妹を連れて生徒の前で挨拶をすることになった

『先生やめないで!』とか、『残念です』とかそういう反応は一切なかった

そんな慕われるほど長くやってなかったし、生徒からしてみれば、自分たちに見切りをつけて、辞めていくんだみたいに冷ややかに聞いてる子がほとんどだったかもしれない

妹も不安だったことでしょう 何故ならまだ17歳 高校を中退して遊んでいたのを、父が習字教室をやらせたら少しは大人になるし自覚をするだろうと思ったのかもしれない

無論、妹もある程度の段位は持っているが、教卓で生徒に教えるなんて経験はない でもそれを見に行ける時間も暇もない

私も三度目の職場に緊張をしていた

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迷いからの脱出

市民課って何をするんだろうと思ったら、ちょうどその時期に青森市の住所表示の変更があり、住民票の交換作業だったかな?40年まえの記憶だから定かではない

職員のほかに5~6人のアルバイトがいて共同で作業を行った

単純といえば単純 分からないことがあれば係長さんが優しくていねいに教えてくれた しかしその係長さんが時々課長さんに呼ばれて説教されるのだ その説教が延々と聞こえてくる

もしあれが自分だったら耐えられるだろうか?

ある日係長さんが、「間山くん、君は習字の家の子だったね、しかも君は先生をしていたそうじゃないか?」

えっだれがそんなことをバラした?・・・「はい、いや助手程度でした」

「でも上手いんだろ?君に書いてもらいたいものがあるんだよ」

え~なんだろう ドキドキ

各住所ごとの住民票を入れてる分離ロッカーの上に表示するものだった

「橋本1~3丁目」「沖館千刈」「荒川」各20枚くらい画用紙を切って三角にして立てておくやつだ

今なら何でもないその筆文字が、緊張で震えてひどい字になる

『あぁそれでも師匠の子か!』と言われたくない

何度も失敗しては書き直して結局 丸一日かかってしまった

「随分書き直してたようだが、どれどれ?まぁいいじゃないか」

冷や汗ものだった 翌日また気になるものは書き直して取り替えた

そうして二ヶ月くらい経ってひとりのバイトがやめたら、代わりに入ってきた子がいた

「皆さん、今日からお世話になりますS・雅子です」名前を聞いて驚いて顔をみてみた 顔はよく分からない化粧が濃い子だった

小学校を途中で転校していったSさんだろうか?

そう思っても聞けもしない男だった

すると昼休みにSさんから「あのう間山さんって、書道の間山さん?」

ハイと言うと急にニコニコしながら「私、小学校途中まで同級生だった雅子です」と言うのだった

あぁやっぱりか・・・と でも顔がまったく違うんだよ

女って変わっちゃうからなぁ

彼女は小3のとき隣りに座ってた優しくて美人な子で、大好きだったんですねぇ、それが秋になって転校するとなって、おいらはガックリしたものでした 

でもねぇ、約10年ぶりに会った人だから思い切って「今日、今までの話をゆっくり聞きたいから喫茶店にでも行かないか?」と誘ったら、

「ゴメンネ、あたしもう彼がいて来年結婚するの、すごいヤキモチやきなの本当にごめん」だとさっ!(´;ω;`)ガ~ン ただ会うだけなのに・・・

人生はうまくいかないもんです

好きな人には振られるし、好きでもない人に声をかけられるものですし

好きな仕事にはつけなくて、無理やり親父に後継にさせられて、それも出来ずにアルバイト

家に帰ってからもため息ばかりついていました

3ヶ月の仕事が終わり、今度招集があるまで自宅待機だそうで、その間に車の自動車免許とりに学校へ入りました

その時でしたか、市役所の採用試験がありました

学校時代の仲間が俺たちも受けると 4人で揃って今の中央市民センターに行きました 

東京の銀行をやめてきたA君、自衛隊を退職して公務員になりたいというY君、家の仕事をしながらも市役所に入りたいK君4人で受けたのだった

問題は初級公務員試験などとよく似た問題でした

のちに通知が届いた 今回は不採用 またの機会にという

ガ~ン!まぁまぁの点数だったのに・・・しかし各課 若干名募集というのに受けた人は800名くらい その中で飛び抜けていないと受からないのだった 

 

またまた人生は甘くないと思い知らされた A,K両名とも落ちたが、Y君だけはその後も公務員試験を受けて合格し、消防署に勤務したのだった

そうしてるうちに妹に任せていた筒井支部が大変なことになっていた

「陵行や、澄子が習字に行ってから生徒減ってしまったよ」

「そんで習字に行かない日もあったようだ」

あぁ俺はまた召集があったら市役所に行ってバイトをし、また試験が受かるまで頑張ろうと思っていたのに・・・しかしあの係長が課長からドヤサレテるのを見ていて、おいらもこうした組織は向いていないのではと、かなり弱気になっていた

要するにクソ!負けてたまるか!やってやろうじゃないか!という気迫に欠けている若者だったのだ ダメならすぐ諦める・・・

これではいかん 友達にも相談した

せっかくの書の腕、俺たちがもってない習字の腕があるんだし、頑張って習字に戻ったら?という意見が多かった

そうして私は父の友人の課長さんにお礼を述べて、教室へ戻ることを決めたのだった

覚悟をきめたのだった

もっともっと深く勉強して恥をかなないような先生になるぞ!

本部の教室にも顔をだすようになった

ペン習字も雑誌の裏の広告をみて、日ペンなど申し込んで教材をそろえ、将来のために硬筆の勉強を始めた

また仮名も和漢朗詠集や高野切れなど徹底的に習った

県展や市民文化祭の展覧会にも懸命に書いて出品 そして県展は

30才までに、三度の奨励賞を取って県展会員になった よぉしオヤジのように県展の審査員になるんだという途方もない夢まで膨らんだ

なんとなく心構えが本気になると、生徒たちにもその熱意が伝わるのか、生徒もまた増えていった

折も折、筒井教室も道路拡張のために、大家さんの土田さんの店も前の部分が道路幅の拡張のために、壊して後ろへ移転しなければならない

土田さんは新しい家を建てて、元の古い家は移動させ、改築して貸してくれることになった

 

それが皆さんが知っているあの大きな屋根の木造の教室でした

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新しいとはいっても、古い家を改造しただけですが、当時は教室としては最高の環境でした

2~3年で一気に生徒が二倍以上にそろばんも初めて50人を超え、ピークは80人もおりました 水茎最大の絶頂期でした 昭和50~60年のことでした

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陵風躍進と困難の時代 その5

10周年(昭和37年) 第1回水茎展を目指して

その1 方向転換

昭和35年 道場第二期の新しい道場ができて一層多忙になった父(陵風)

もう一つ悩みがあった

それは国柱会と立憲養正会のことだった

10代の頃の戦時中、天皇を中心とした皇国の真の世界を追求した立憲養正会は、軍一色の政治を批判していた 書道で師となったはずの師が政治面での顔も持っていて、若き父はその活動にも浸透していたのだった

しかし戦後、時代が変わり自らも家庭を持ち、本来の書道の生活に戻ったら、その政治運動はできなかった 道場は相変わらず会に提供したりしていたが、書道に集まる生徒や弟子は、社会主義の方もいれば共産党の方もいる また宗教もそうだった

これはイデオロギーを超越して、文化活動として自分は違った生き方をしたいと会の幹部に話したそうだ 理解する人もおれば、「なに!貴様、脱退するつもりか?」

怒って父を叩いたりする先輩もいたそうだ

それをフォローしてくくれたのが、兄の澤義さんと西村さんという友人だった

師である田中澤二先生は養正時評という機関誌の中に「らんせん流書法要義」というものをシリーズで発表していた 

その中で師は蔦温泉で研修会を何度もし、自然との調和を指導していた 間山陵風はその教えを書に生かして人々を内面から変えていきたいと それに賛成してくれたのが兄と友人の西村さんたちだった

父はその要義に深く心酔していたので、当時いろんな書壇からの誘いがあった(翠軒流、小川瓦木や森田子龍の前衛書の「奎星会」、北門書道など)

相田みつをもエリート街道を通り、20代でその実力は飛びぬけた方で、将来は中央書壇で活躍する人であったが、敢えてそれをやめ、独自の書を書き、個展を開いていったのと、方向が似てるかもしれない

 

そして会の長老の長浜さん、平山さんという方たちも次第に書道に専念する父になにかと応援してくれるようになった

それからは国柱会や立憲養正会の会合などは、我が家では減っていった

内弟子も入り、また子供達ばかりじゃなく、水茎会という書道一般生も集め、勉強会を開き、蘭川流書法要義を臨読させ、そしてそれに基づいて書を書く

社中展の前に県展などにも出品し、派閥の多いその中で闘っていた

当時は他の有力な書道会派に押されて、相手にされなかったときく

翠軒流を基盤とした宮川先生の雨声会、千峰会、大日本書芸会の辻一派、東奥書道、北門書道が主流だった青森

一時奎星会や北門や翠軒流の星雲などに出品して、高く評価されて期待されていたのに、すべて辞めて独自の方向にいった間山陵風は、異端児と思われて、妨害されたこともあったという

 

そんな中、10周年を迎えた昭和37年、当時「書の友」「水茎」を独自にガリ版刷りで競書の機関誌を発行していたが、父兄や会員に向けて協力して、一致団結して第一回の水茎発表展覧会を成功させましょうと呼びかけていた

2月の冬のさなかだったと思います 父兄20人、会員、そして5年以上の生徒、また父の友人たちも手伝ってくれて、元の青森市民会館1階正面の大会議室で、

展覧会が行われたのでした

市民会館にいろんなショーとかで訪れる人、市役所の隣りでの一等地でしたから、参観者が半端じゃなかったですね、一日に500人以上二日間で1200名とか普通でした

今なら考えられませんね、展覧会というと静かで5人くらいでトータル一日に100名もくればいいほうです。当時は県展並の人出だったのです

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その2 地道な努力の報われる時代

 

そういう努力や事業を行っていると、そのうち間山陵風の信念をよく理解し応援する方も出てきた

北門の長老「宮川松子氏」、翠軒流の高校教師「中村翠江氏」青森商業の「千葉聖峰氏」翠軒流の「小田桐半草氏」、あすなろ短歌の会長「横山武夫氏」

 

彼らはのちに賛助出品をしてくれたり、社中展には必ず顔を出してくれるようになった 新聞の高評までしてくれたために、

柳町に石の加工をしてる絵描きさんで、竹内勝美さんという方がおられた

彼は県展の事務局をしていて、間山陵風と意気投合するところがあり、賛助出品はおろか裏方までいろいろ支援してくださった

その後間山陵風は県展のほうで地位もあがり、審査員として活躍するようになった

そして大きな会派に対抗して、小田桐半草先生の「北翠会」「和田現先生の「雨晴会」山田翠城先生の「貞翠会」などと協力して県展の改革に寄与した

その頃、三人の息子のうち二男の私と、三男が書道を継ぎ、それぞれ教室を2~3開いていた

昭和の末期(S55~S63年)我が水茎会の絶頂期でしょうか 父子で教室が7つ

学生生徒が300人、一般会員が40名の大所帯であった

 

父、間山陵風のすごいところは会派を越えての交際術 そしてお酒も飲めないのに真っ赤な顔で熱い書論を闘わせて、その地位をつかんだという

いわゆる社会的な名誉や地位は少ないが、人望というか徳というかそれは息子の我々がとても真似のできるものではない

しかし会が発展すればするほどやっかみもあり、足を引っ張る輩のいるのもこの世界の常識 批判をあびたりあらぬ噂を流されたりするものである

それは家族の絆や団結力と強い信念があってはねのけられるものだろう

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蔦研修会

書の師であった螢沢蘭川氏(田中澤二)が亡くなって、宗教と政治結社から距離をおいた陵風は、一時奎星や翠軒流、北門などに身をよせたが、やはり師の教えの根幹である【『蘭川流書法要義』=のちに詳しく解説】の中に『一流一派にとらわれずに、書は自然の形象に学ぶべし、書家の書ほどたいくつなものはない』

これが頭を駆け巡った

当時(今もどうであろうか?)は日展も毎日展も主流な派によって賞も振り分けられ、師匠の真似をしないと落選してしまう

また(書ををダメにした七人=くたばれ日展)大渓洗耳著が話題になった

之を機に奎星の森田子龍氏が展覧会書道から脱皮

独自に墨美という機関誌を発表 そして陵風は森田子龍の会に所属した

一方で、蘭川氏の教えの実践で「自然の形象に学ぶべし」を実行するために、師匠同様に蔦で研修会を計画した

2~3ヶ月前から熱く弟子たちに話、気持ちを高揚させ、夜に毎週一回特別の集会をし、書法要義の臨読、朗詠の練習をさせた

そして新緑の6月に第1回蔦研修会を開催した

書道会員、児童、父兄、そして兄の雲龍氏の外ヶ浜会から竹山師をはじめ30人、そして父の同士である国柱会のメンバー5人とその家族で、総勢120名による研修会が始まった

当時流行していた8mmの映写機で撮っていただきました

第1回はあまりの人数のために、沼めぐりは蔦沼だけで終わり、そこで子供達の合唱、竹山師の伴奏で津軽山唄を雲龍先生が、朗詠を陵風先生が感動して涙ながらに唄う

そしてお昼を食べて

入浴をし、その後講義では亡き恩師の話をして、最後に揮毫で大字書を数枚書いて終了 帰りは裏八甲田を通り、田代のつつじを見て帰るというコースで無事終了したのだった

それから毎年のように内容を充実し、研修会は20年間で15回ほど開催したのだった

 

ちょうど私がまだ10代の後半1971年だったか、青森放送のドキュメント番組での「寒撥」=カンバチで文化庁芸術祭で受賞した

それがきっかけで五年後に映画「竹山ひとり旅」が・・・

竹山役に「林隆三」が演じた (2014年 6月4日70歳で逝去 お悔やみ申し上げます)

このころ竹山師の蔦での様子をアマチュアのカメラマン「葛西」氏が一緒に参加して竹山氏や研修の様子を撮り、写真集として発表している 

 

蔦といえば、大町桂月があまりにも有名だが、実は竹山師もこの研修会が大好きで、子供達と一緒にあるく沼巡りを楽しみに毎年参加したと聞いている

もしかしたら、新しい創作の曲にその蔦が大きく影響していたのではと、思ったらバチがあたるでしょうか?

 

 

 

 

間山陵行(二代目)筒井支部を任される昭和46年

第1章

その1  (先生になる決意)

昭和45年、高校を卒業した水茎次男坊の間山陵行、陵行は雅号といって、書名である

本当は自分の好きな雅号をつけたかったが、暫定の名だった

いかにも陵風の仕事を行うという意味で、嫌だったのだ

しかし全くいい名前が浮かばない、浮かぶ名はすでに他人が使用していた

兄が「陵心」妹が「陵雨」、弟が「蒼風」 陵雅=リョウガは大学生で張り切り青年のIさんに、

陵峰=リョウホウは一年下のG君に決まった。やはり後輩の近所からきてるO君は「芳山」

展覧会でも陵行、研修会でも父が「陵行!」と呼ぶのでもうすっかり慣れてしまって、本名を使うときがなくなった。母まで普段でも陵行さんというので、たまに「信満」と言われるとドキッとするというか、裸を見られたようで恥ずかしいのである

 

さて本家のこんにゃく屋を退職してから、父の隣りに座って代稽古をさせられて数ヶ月経った夏、内弟子の小泉先生の体調が思わしくない

あの方は冷え性もあるのに、仕事の忙しさから無理を重ねていた

とうとう入院することになった

それで筒井支部を自分が担当することになった

K先生と二人で挨拶に行った

「皆さん、今度私の代わりにこの教室を担当するのは、間山陵風先生の息子さんの間山陵行さんです」と紹介された

「皆さん間山陵行です、よろしくお願いいたします」生徒には慣れてるとはいえ、緊張を隠せないウブは青二才だった

筒井支部は父が8年、K先生が21歳から8年、そして昭和46年の9月に自分が担当することになったのでした。

大丈夫かな?できるだろうか?不安はあった

若干19才、先生の息子とはいえまだ師範の資格も持っていない

専修科の奥伝クラス 手本も満足に書けない青二才でした

父は「大丈夫だ、手本はしばらく私が書いたのを持っていって、それで指導すれば案外できるものだ 失敗したり恥をかいたりして覚えるものだ、頑張れ!」

そういって父は笑うのだった

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 その2  何故兄貴じゃなく次男のおいらだったのか?

父にしてみれば頼りのない息子でも、ついに支部教室を息子に任せた してやったりだと思ったのだろうか?他の商売の人はなかなか息子に後継をさせられないでいる

間山家では、長男の信行が後継として父は育てていた 習字だけじゃなく精神も鍛えようと必死だった なにかあれば説教を何時間もしていた

「学校の勉強はどうでもいい、お前は書道と三味線を一生懸命学べばそれでいい」みたいなことを言ってたので、兄はそのとおりにしていた

昭和40年代お坊さんのように家に閉じこもって本ばかり読んで、堅物な正確になっていく兄だった かたや民謡の三味線では竹山先生は「信行は耳がいい、たいしたもんだ!」と兄の才能を褒め称えていた 当時の西川洋子さん、長崎栄山さんなども「信行君にはかなわないわ」と言っていた

昭和40年代といえば戦前ではない、民主主義が定着し、父親の威厳も小さくなり時代が変わっていく中、父の教育は時代に合っていない だがおよそ芸術と言われるもの、つまり能、歌舞伎、浄瑠璃、などの伝統芸能の宗家などは今でも昔ながらの厳しい稽古をして伝統を守っている 

しかし兄の信行は直角というあだ名がつくほど糞真面目で融通のきかない少年に育っていた 学校でははみだし者で周りから、変人扱い 正義感強く腕力もある兄は、クラスの連中とケンカしては孤独になっていった

よく弟の自分に「おい、俺は変わってると思うか?どこがおかしいか言ってみろ」

だから「兄さんはすべてがおかしい、もっと規則を守るだけじゃなく、許す気持ちになればいい」それだけならいいが、弟のわたしの言い方が気に入らないと、急に怒り出して殴りかかってくる

それで取っ組み合いのケンカを何度したことか

足の悪い父が道場から我々の物音を聞いて、鬼のように怒って飛んできては二人をげんこつで殴り飛ばすのだった 弟の私は5発だとすると、兄は二倍くらい多く叩かれたはずだ(小さい頃から喧嘩をすると、足の悪い父が飛んできて叩く回数は一年に100回はくだらない数年で1000回は叩かれた計算・・・・すごい)

容赦のない父親だった よく頭が壊れてバカにならないか?そう思うほど二人の頭はいっつも父に叩かれてコブだらけだったのだ

後継なんかしなくてもいいと気楽に構えた私は案外ノビノビと育ち、学校でもチョイ悪少年で自由に育った 近所の子供たちがよくなついて私のまわりにはいっつも10人前後の男女が家来になって遊んだものだった

 

そういう境遇を父親は見て悟ったのかもしれない

「あぁ兄は親下からはなして苦労させたほうがいいかも」

東高校を卒業した兄はすぐに竹山先生の盟友の東京の【市川竹女】先生(津軽民謡、成田雲竹の弟子で三味線は白川軍八郎の流れ)のもとに行くことになった

ご主人が下町で鉄工所をしているので、そこで働きながら民謡の修行をしたらいいとのこと、願ってもない環境だった

 

 

兄がそうだったので父は寂しくなったのか、私が高3の秋に就職がやはり東京へ決まっていたが、「信満!おめ東京さ行くのやめろ!母さん倒れてしまう!」

『え~~~!そんなぁ!母のせいにすんなよ』と心で叫んだが父のいうことは絶対である

そうだ、今は言う事を聞いてていつかスキをみて東京に逃げてやる・・・とガマンをしたのだった

 

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その3 思った以上に大変なストレス

いきなり70名の教室は重かった

まだ新米な若先生である

いきなり若いボンボンがきたので、生徒のほうも面食らっただろう

今までは気心のしれた女の先生である

習字はなんぼか上手いかもしれんが、先生としてのキャリアは少ししかない

それがただ直す(添削)するだけで余裕のない先生にたいくつだったかもしれない

特に4年~6年生が多かった 5、6年になるとかなり上手い子もいて、私が赤い色で直すと「あれ?前の先生はそこいいと言ってくれたのに」

「教え方が違うよ、なんかヘン?」と言い出す子もいた

それが若いおいらにとってカチンときてしまって

「俺は俺だ!たしかに前の先生と違う、でも今は俺が来たんだから、俺に従うのが当たり前だろ!」とムキになって叫んだ

生徒はびっくりして 黙ってしまった もうそれで2~3人は来なくなった

教え方がまずくて順番を待つ生徒が並んで飽きてしまって騒ぐと、イライラしてその騒いだ子を怒って叩いたりした

もう最低な先生である よく当時の生徒はついてきたものである

辞める子はいてもまた次々と入ってくる

中にはそんなオイラにも慣れてきて、いろんな話をしてくる生徒もいてホッとすることもあった 

特に世話になったなぁと思うのは大家の土田さんの娘さんのヒロコちゃん、まだ5歳であったが、習字の始まりは机の並べ方やいろんなことを教えてくれた

帰りも片付け方を教えてくれた 習字も上手で終わってからもいっつも隣りにいて甲斐甲斐しくお世話をしてくれる気のきくいい子だった

それでも家に帰ると肩が痛くて(緊張で?)ジ~ンと病むのだった

まだ車の免許もないときで、バッグに荷物を沢山つめてバスで週3回通うのだった

帰りはバスもなくなり何度筒井から長島まで歩いて帰ったことか

それで自転車を買って夏はなんとか頑張れた19才のことだった

 

 

 

 

水茎と民謡と切っても切れない関係

間山陵風(父=初代)の兄は間山沢義(雲龍)二人共すでに他界されているが

兄弟9人のなかでもっとも仲のよい兄弟であった

父の実家はこんにゃく屋

父の父は間山澤次郎(明治10年生) 入内高田村出身で北片岡へ分家してこんにゃく屋を開いた

大正6年あたりに黒石出身の「つゑ」と再婚

(大正7年)大正7年に長女「はつゑ」、9年に次女「みつゑ」、10年に長男「沢一」、12年に次男「沢義」、14年に三男「沢次」、昭和2年に四男「浅市」、4年に五男「浅次」、6年に六男「浅義」、9年に七男「浅男」

次男の沢義は長男と共にシベリアへ抑留されて、後に帰還後、イデオロギーでは大議論をしたり、その後民謡の成田雲竹師と出逢い民謡を習った また家業のこんにゃく屋を長男と共に守りながら、身体障害を持ちながらも懸命に書道の腕を磨く弟の後押しをして、道場開設の際は大活躍をし、共にその道場で書道と民謡の教室にしたのであった

雲竹師は津軽民謡の発展に寄与した偉大な師であり、その一番弟子として、雲竹流民謡道場を青森で真っ先に開いた人であります。

第一期の道場は狭い部屋の中でした 昭和31~32年頃でした

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すでに雲竹師と竹山さんは昭和25年から出逢い、伴奏者としてのコンビを始めていた

そこに雲龍氏の道場ができたことで、時々顔をだすようになりました

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水茎の第二期の道場は昭和35年、正式に水茎書道院の看板とともに、日本民謡協会雲竹流民謡外ヶ浜会という看板を並べて掲げた まさに間山の兄弟の文化事業の旗揚げだった

道場が広くなったところで、道場はフル回転

火木土が習字 金曜日が民謡教室 正式に竹山師は会の伴奏として毎週顔を出していました そのうち、水曜日が竹山三味線教室になったことで、三味線だけ習いにくる方が増えてまいりました

月水金はそろばん教室も始まった 当初は青森でも選手で名高い「松井さん」という女性の先生を迎えて始めた その後近所で木村さんという父の友人がそろばんを教え、それから弟子のチエ先生がそろばんを担当

毎日のように習字、そろばん、民謡の歌声、太鼓や三味線の音が近所に響き渡ったのである

まぁ北片岡177番地(長島3丁目)はチョー有名な『珍百景なやかた』であったに違いない

真夜中は父が展覧会に出すために画仙紙を道場に散らかしていたし、窓を開けながら詩吟を唄う 気合入ってるものだから、子供たちが騒ぐと大声で叱る 或いはげんこつを振り回す 一ヶ月に一度は日蓮宗の「国柱会」または関連した政治結社「立憲養正会」の会議や集いなどもあると、夜は懇親会で大騒ぎ 真夜中の10時すぎまで大きな声が近所中に響き渡った

きっと苦々しい思いでいたことだろう

ある日、民謡のおけいこのとき、隣りのSさんのおじいちゃんが、戸をドンドン叩いて静かにしろ!と大声を出したことが二~三回あったそうだ

ほかの家々はみんな我慢をしていたことでしょう

当時は駐車違反もあまり厳しくない時代で、民謡の例会がある日は、近所の道路には10台ちかい車が停まっていたはずです

なにしろ防音装置もない家で、今のように二重窓でもない 真夏は窓を開け放して太鼓や唄でしたから

私も子供のころ、銭湯に行って帰りに100m近づけば聞こえていました

みんな諦めていたのでしょうか?

また逆に民謡がお好きな人は窓の外にいて、ずっと聴いてる人もいた

雲龍先生はその人たちを中に招き入れたりしていました

中には竹山先生のほか、後に有名になるすごいメンバーがいたのでした(敬略称)

西川洋子・・・安方の甚太古の娘さんで青森放送のレギュラー

楠美竹善・・・第二期竹山会の会長さん(魚河岸の幹部)

山善一・・・後に市議会議員

長崎栄山・・・神戸で妻の雲栄とともに民謡教室をひらき、多くの弟子を育成

須藤雲栄・・・  〃    〃

後藤吟竹・・・港町で魚屋や焼きそば屋を開きながら民謡の師となる(民謡日本一)

工藤竹風・・・油川出身 民謡の師となりながら、ねぶた作りでも有名

白鳥雲道・・・雲竹師からもあいや節などは絶賛された 後に民謡社中の代表となる

水上幸子・・・三味線のお弟子さんでしたが、保村幸子として中央で津軽弁の語り部として活躍されています

そのほか、竹山師の内弟子に入ったところの岩手県から伊藤竹味さん、東京から18歳で上京してきた房子さん、後の高橋竹与さん(二代目竹山)でした

お二方は実に真面目で、青春もなにもなくただ先生のおそばに使えて、家事も一切行い三味線の稽古に明け暮れたのでした

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とくに竹与さんの場合は20数年にもおよぶ長い間、先生の手となり足となって、支えながら自らの芸を高めていったのでした。

そして二代目を襲名されたことは、道場を提供した水茎にとっても大変嬉しいことです

また、 1971年(昭和46年)青森放送で竹山を取り上げたドキュメンタリー『寒撥』が放送。一般にその名を知られるきっかけとなる。番組は同年度の文化庁芸術祭で優秀賞に選出された

その後、音楽観賞団体のさきがけの「勤労者音楽協議会=労音」からの誘いで全国津々浦々を数十年かけて回ったそうだ

渋谷のジャンジャンでは若者を中心に人気となり、津軽三味線をならう人が急増した

むしろ地元の青森でその価値をあまり知らない方が多いのは情けなかった

 

 

1977年(昭和52年)新藤兼人脚本・監督により映画竹山ひとり旅が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。竹山役は林隆三が演じた。

 

民謡外ヶ浜会は昭和37~47年ころが一番華やかであったかもしれません

毎年のように発表会を行い、当時の市民会館で開催されました

当然我が父は一会員として伴奏のハーモニカを吹いたり、鼓を叩いたりして、また会の事務局として長年発表会などではイベントの企画や裏方を担当していました

また習字で展覧会があれば民謡の会員は必ず手伝ってくれました

そのほか、市民文化祭があると書道も展示会があり、民謡もまた雲龍先生が青森のまとめ役で父も私も手伝いをいたしました

書道の研修会で八甲田の蔦温泉で開催された第1回(S37年)はバス二台で、100数名もの人数で行き、当時最先端の映写機で撮ったりしていました

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その後毎年のように蔦研修会では竹山師と外ヶ浜会の面々も同行し、沼の前では子供たちが合唱したり、呼びかけを行います。

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その締めくくりには雲龍先生や、竹風先生の唄に竹山師の尺八伴奏、そして横笛での演奏など素晴らしい思い出となっております

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本当に水茎書道会と外ヶ浜会は一心同体でした

研修会は外ヶ浜会が独立して離れていっても数回書道だけで行われましたが、なんだか今いち物足りなさがあった気がします

今考えると、兄の雲龍先生が外ヶ浜会を移したことと、竹山会を楠美先生に譲り移したことなどで、竹山師とも疎遠になり、疎遠になることであれだけ深い絆で結ばれていた関係も薄くなっていったのは息子としても寂しいなぁと感じていました

今、竹山師も、成田雲竹師も父や雲龍さんたち、そして奥様や友人たちとみんな天国で手を携えて会を催しているのでしょうか

竹山師の家を守っておられる孫の高橋哲子さん宅に、竹山師の孫弟子で埼玉在住の「山本竹勇師」とともに今年の冬に訪ねてまいりました

昔の家はすでに建て替えられ、ご立派な祭壇があり、竹山師や奥様の「なよ」さんのお写真や肖像画、そしていろんな懐かしいものが見られます

哲子さんも私同様にきっと寂しさもありましょうが、大きな軌跡の名誉に囲まれて

事あるごとに、笑ったり泣いたりしながらも、勇気を奮い起こしていることでしょう

 

 

 

 

 

二代目 自分の(進路に悩む)

S29年に交番で始まったが、学校向かいの土田商店、当時はたばこ店だったのか、何屋さんだったんだろうか?塩、雑貨

田舎の店ですからまぁ何でも置いていたのかもしれません。

黒石のコモセを連想するように、店の中は1.3mくらいの幅の通路がありました

そして奥は長~い土間の通路が裏口まであります

途中に井戸やトイレ 数軒の間借りしてる家族がおりました

何でも戦前は五連隊(日本陸軍第8師団歩兵第ご連隊が正式名)が青森高校あたりにあり、土田さんのところが宿舎の一部だったと聞いております

私が知ってる筒井の教室は初めて父についていった(夏休み?)小学5年位の頃

バスに乗って知らないところへ行くのはワクワクでした

バスが堤を曲がるとすぐにもう人家は減り田んぼが見え、八甲田山が見えました

ようやく筒井の曲がり角を曲がって床屋さんの向かいの土田の家具屋さん?(記憶違いかも)の前で降りると、あとは川を越えて50mくらいで土田たばこ店がありました

向かいは広いグラウンドがあり遠くに小さな校舎が見えます。それが筒井小学校でした

川のそばに2階建ての古い建物が見えます それが筒井支所だったそうです

次は高校2年の頃(昭和43年)造成されたばかりの新しいモデル団地で、道路はきれいに整備されて、桜の苗木もあちこちに植えられていたが、まだ住宅はほんの少ししか建っていなかった 筒井中出身のクラスメイトと自転車での帰り道立ち寄った

(第三公園などそこで数人の子供らと話をした経緯があって、その3年後にその子達が習字を習いにくるという偶然があった)

友人と分かれてそのまま土田商店までくると、丁度内弟子の小泉さんが支部を任されており、窓から覗き込んだら、「ほれ、みんなあのお兄さんが大先生の息子さんだよ」と言ったものだから、みんなジロジロ見られて照れてしまった

その頃もまさかその教室を引き受けるとはよもや思わなかったのである

高校を卒業ちかくなり、友人たちが次々と就職を決めていた

当時の青森商業高校は、市内の主な会社や事業所の代表はほとんど青森商業卒であったし、60年の卒業生が全国で活躍してて、地元の青商生を求人にくるのであった

一人の高校生に5~6人の会社が奪い合うという求人難の時代である

それでも私は何かになりたいという目標もなかった 兄が東高校から3~5年は東京で修行するという約束で先に出てしまい、寂しくなった父は、ようやく就職が決まった私の肩を叩いて、「おまえ東京行やめれや、青森にのこれ!」と言われて驚いた

私だって当時はみんなあこがれの東京へ就職するのは楽しみにしていた

父の命令は絶対の我が家であった すぐさま母が東京の方に断りの連絡を入れた

父は跡取りに私にさせようとしていたのである 兄は不器用で書はうまいが、子供によくなつかれる次男の私のほうが適性があると思ったのでしょう

それでもすぐにはダメなので、まず実家のこんにゃく屋さんに就職しなさいと言った

当時の自分には自分の意見がなかったのだろう、言われるままだった

父としては扱いやすい息子だったに違いない

もし、社長が気に入って間山商店の将来重役となるならそれもいいと思ったようだ

実家の会社の専務をしていて、民謡の叔父の雲龍さん(父の兄)を呼んで相談してすぐに決まった

そうして私は本家の会社に就職したのだった 高校時代の友人も2、3人青森へ残ったので、会社が終わるとすぐに遊びに歩いた もう書道なんか休みがちで仕事が終わると遊びまくった

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一番右が自分(18歳ころ)

若いもんだから遊ぶと午前様のときもある だが会社は朝5時とか6時に出社しなければならない きつかった 疲れが出てボ~!としてて大事な製品をひっくり返してしまったりの失敗があった

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金木へ(右が自分 19歳?)

 

製造業なので、朝上司とトラックで市場に卸しに行って帰ってから朝ごはんを食べて、そのあとゴムかっぱを体につけて、ゴム手袋をはめてこんにゃく作りをする

工場長の寺山さんの無駄のない動きを真似した かっこいいなぁと思うのだが、なかなかうまくできない いっつも下っ端の仕事しかさせてもらえない こんにゃくは石灰を使うので、手が荒れてしまった 指の間すべてが割れてしまい、痛くてたまらない 若いのにこんな手をしてる友は誰もいなかった

夏6月ころ ところてん作りが始まる これをまだ新人の私に専門にやらせることになった 工場長が一生懸命に教えてくれる ところが順番間違えたり、大きな釜の熱温度を間違えたりで蒸かせてしまってところてんが釜から溢れてしまうのだった

するとこんにゃくを結ぶおばちゃんたちが「あれぇ、大損害だよ~」と皮肉をいう

すんごく嫌だった 誰でも覚えるまで時間がかかるよと心で反抗していた

2ヶ月くらい経ってようやく手順も覚え、ところてんを一人で作れるようになった

嬉しくて友人に持っていっては「俺のつくったところてんじゃ 食えよ」

でも同じように作っても寺山工場長がつくるのは弾力があり、美味しい

自分のはもろくて崩れやすかった

製造に余裕が出てくると、外を見る余裕も出てきた 向かいのタイヤ屋には友達の友達がかっこよくタイヤ交換をしている、おいらはおいらでかっこよくところてんを造ってるぞと すぐいい気になってまた溢れて大失敗をした

折板という板数十枚に流し込んで、冷まして固まったら、外へ運んで風で更に冷やす

その板を運ぶのに最初は4枚が関の山 足元はコンクリートが滑るのだ ところが慣れてくると6枚持って運べる オイラは「力持ちだ!」ってんで8枚持って周りにすごい!大丈夫?無理すんなよと言われてるのに、一度ならず二度くらい8枚持ったままスッテ~ン!と転倒してまた失敗・・・・一枚で1000円ちかくする8枚なら・・・そう何千円もの損害なのだ いったい自分は会社のためになってるんだろうか?

それでも会社からの初めての給料日 ドキドキ

朝早くから12時間働いても残業手当もないが、26000円頂いた 当時の東京での高卒の初任給が28000円だったので、そう悪くはない

母に言われたとおり、父へ給料そのまま渡した すると父は「おぉ!ご苦労さんだった はい!これはお前の小遣いだ」と言って6000円を私に 2万円は父が頂いた

友人に話すと「ひどい!自分で働いた給料を家に入れるの?古い!」驚いた

当時は東京から両親に仕送りしてる人は大勢いたと聞く

わたしの友人たちは誰ひとりいなかったのである そして夏頃になるとみんな車を買っていた 友人と遊びに行くと一晩で3000円位は飲んでしまう これではすぐに小遣いがなくなってしまう そう思って「酒を飲む付き合い」は極力断った

当時コーヒーは70~100円 喫茶店ならかなり安く付く 一杯のコーヒーで時間を長く延ばしてとりとめのない話ばかりしていた

ドライブに行って先でなんか食べるときでも友達におごってもらうことが多かった

そうでないと自分にはお金がないのだ  

 

だんだん友達に彼女が出来てくる 自分も紹介されてひとり彼女らしい人ができたのだが、あまり容姿など好きな人じゃないが、とりあえず誰かと付き合っていなくては、カッコウが悪いと思っていた 同じ年齢の女性は好みじゃない (そんな考えで女性とつきあっていては女性に失礼である)

でもそのAさんという女性は週に三度くらいは会社へ電話をして誘ってくる

会社の上司に冷やかされて参った 「のんさんの背中に電話をつけなくちゃ」余計なこっちゃとまた心で思った (今のように携帯があったらいいのにねぇ)

たまに会社を早く終わるとたまに書道教室に顔をだした(出さないと父が機嫌がわるい)

すると当時は若い女性も習字を習いに大勢きていたのだった

20歳になって自分も免許をとり、車を買ったころは父は必ず

「T子さん うちの息子が送るから心配しないで」と言うのだった

面倒くさいときもあったが美人な娘さんだったら、嫌なこともなかったので「いろんなお弟子さんを送っていった」

でも元来 あまり社交的でなかったし、自分に好意を示してくれる人もいたのに、気の利いたおしゃべりもできず、恋愛に発展することもなく 無駄に年月がたち、いいなぁと思う人はみな嫁に行ってしまうのだった

本家の会社に勤めて一年が立ったころ、盲腸になり入院した 退院して家で養生してたら、叔父さんが迎えにきて「なに休んでるんだ!今、会社は大忙しだ、早く来い!」と怒鳴られた

まだ本調子でないのにまた10時間の労働が始まった

冬になって腰の調子が悪いのに気づいた やたらに仕事中に腰を気にするのを工場長が「腰が痛いなら病院へ行ってこいよ」という

何だかイヤイヤ仕事をしてるように思われて嫌だったが、会社を抜けて整形外科に言った 問診で「あぁ力仕事で毎日限界を越えての筋肉を使うから腰にきたんだなぁ、これは椎間板ヘルニアですな、一ヶ月ほど入院して腰を引っ張れば治るよ、まだ若いから」

よく入院するなぁと母に言われたが、しょうがない

一ヶ月の入院は退屈だった 内蔵が悪いわけじゃない 入院してるほかの患者はみな年上でもっとひどい人が大勢いた 大手術した人も それでもおいらに遊びに行こうと誘うのだ 誘われて断れない自分がいた

夜こっそり抜け出して、映画観にいったり喫茶店に入ったり、パチンコをしたり 先輩がお金を出してくれるので、何度もいろんなところへ連れて行かれた

初めてSTRIPーSHOWも見せてもらえた

しかしある日婦長さんが怒って「あんたたち、間山さんを連れ出してだめでしょう」「間山さん、この人達と付き合ったらろくでもない人になっちゃうわよ」

そうして退院した私はしばらく会社を休んで家で養生していた

父も心配して、「おまえこのまま会社へ行ってたら腰が悪化するかもしれない」

「そうだ、書道の手伝いをしなさい」会社にはお世話になりましたと挨拶に行った

「習字の先生になるんだって?がんばれよ、若先生!」 照れてしまった

 

そうして翌日から習字の日には準備、掃除、父の隣りに机をおいて、始まると小中学生の子を一回目自分が添削をして、二回目は生徒が父の方で見てもらう 終わったらまたあと片付けと掃除

習字のない日は自動車学校へ行かせてもらった

週三日しか学校へ行けないので、なかなか進まない 二ヶ月もかかってようやく卒験

だが時間がかけた分、頭によく入っていたのか、理論は十分だった 実技は会社でかなり練習していたので、ばっちりOK! 仮免も卒験も順調にいった

早く公安委員会へ行って本試験を受けたくて予定より早く行った

いっしょの学校の知人も来ていて頑張ろうと励ましあった 発表で私とS君が受かりあとH君ともうひとりは落ちたようだった

受かったよ!と父にいうと待ってたように、オヤジはすぐに車を買うてはずをした

民謡の叔父の知人の自動車屋にちょうどいい中古車があるという

最初は新車買わないほうがいいとのこと、足立ナンバーで当時はやっていたニッサンサニークーペ1000ccを紹介してくれた

3万キロしか走ってなくて15万 車検も18ヶ月付きだとのこと

 

父はさっそくそれに決めた

1週間ほどでその車が届いた 初めての車がスポーツタイプでしかも当時珍しいオートマチック車だった

左足がなんだか変だった(使用しないので)信号が青になって自分のサニーが一番早く前に出るのだ それが自慢だった 友達もスゲェスゲェという

困ったのは毎週、父がドライブに行こうということだった

たしかに買ってくれたのは父だが、おいらにも日曜日など友達との付き合いがある

父には言えずに母いってようやく間接的に許されたようで、月に二度の日曜には友達と遊びに行けたのだった

(次回はいよいよ間山陵行 筒井の先生になる)